2004年3月21日、イスマーイール・ハーンの息子ミールワイス・サーディク航空・観光大臣がヘラートで国軍司令官の攻撃によって殺害されたことに端を発し、イスマーイール派私兵と国軍の衝突が勃発、100人以上が死亡する事態に発展した。翌日中央政府は国軍兵600人と内務大臣及び国防大臣を派遣して沈静化につとめたが事態はおさまらず、さらに8月にはイスマーイール派とアマーヌッラー将軍派の衝突で約50人が死亡する事件も発生した[6]。中央政府は遂に2004年9月11日、イスマーイールをヘラート州知事から解任した。解任に抗議する支持者約800名が国連関係事務所に対し投石、放火等を行い暴徒化し、支持者の中で数名の死傷者が発生した[7]。同年12月、懐柔策によって、彼はカルザイ政権に水資源・エネルギー相として入閣した。 彼には毀誉褒貶が付きまとっている。国境なき記者団は、彼が厳しい報道管制を敷き、ジャーナリストを襲撃したと非難している[8]。また、ヒューマン・ライツ・ウォッチも彼を人権侵害で非難している[9]。 それにも関わらず、イスマーイール・ハーンは国内で高い人気を保っている。それには以下のような理由がある。まず、他のムジャーヒディーン司令官と異なり、カーブルで1992年以降に起こったような大規模な虐殺や残虐行為に[3]、彼は関与しなかった。また、彼の統治の間、ヘラートは国内の他地域に比べて平穏で、経済的な繁栄も果たした。ヘラートは古くから交易で栄えた都市で、アフガニスタンでも豊かな都市として知られている。関税から得た歳入によって、ソ連とターリバーンとの戦闘によるダメージから街は復興した。道路を補修し、学校を再建し、小規模なビジネスにも機会を与え、ハーンはヘラート市民から大きな感謝を受けた。彼の人気は、知事解任時に起こった暴動からも確認することができよう[4]。 2021年8月13日、ターリバーンの攻勢によりヘラートは制圧された。イスマーイール・ハーンは市内にとどまり、ターリバーンに一時拘束された[10]。
毀誉褒貶
ターリバーンによる拘束
参考資料^ a b c 山根聡「アフガニスタンの軍閥と中央政権」 鈴木均編『アフガニスタン国家再建への展望』明石書店、2007年
^ Coll, Steve. Ghost Wars. pg 40. 2004, Penguin Books.
^ a b c Ismail Khan, Herat, and Iranian Influence by Thomas H. Johnson, Strategic Insights, Volume III, Issue 7 (July 2004) ⇒[1]
^ a b ⇒Profile: Ismail Khan, BBC News(September 2004)
^ ⇒Why Bush’s Afghanistan problem won’t go away, Seymour M. Hersh, The New Yorker(2004-04-12)
^ 山根聡「アフガニスタンにおける軍閥と中央政権」『アフガニスタン国家再建への展望』鈴木均編、明石書店、2007年、245-246頁
^ アフガニスタン:ヘラートにおける騒擾事件の発生, 外務省 (September 2004) ⇒[2]
^ ⇒http://www.hrea.org/lists/hr-media/markup/msg00103.html
^ ⇒Afghanistan: Torture and Political Repression in Herat, John Sifton(November 5, 2002)
^ “タリバンが「ヘラートのライオン」拘束、アフガンの軍閥指導者
外部リンク
⇒BBC Profile: Ismail Khan
⇒General Mohammad Ismail Khan-www.globalsecurity.org
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