イスパノアメリカ独立戦争
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イスパノアメリカ独立戦争(イスパノアメリカどくりつせんそう、英語: Spanish American wars of independence、スペイン語: Guerras de independencia hispanoamericanas)は、19世紀初期、イスパノアメリカスペイン統治からの独立を目的とする一連の戦争。

ナポレオン戦争中にフランスがスペインに侵攻した後に生起した。
概要

戦争は1809年にチュキサカ(英語版)とキトセビリア最高中央評議会に反対する短命なフンタが結成されたことで勃発した。1810年、イスパノアメリカ各地でさらに多くのフンタ(英語版)が結成され、一方スペイン本国の最高中央評議会はフランスに鎮圧された。イスパノアメリカの諸地域では本国の政策に反対する者も多かったが、「完全独立への興味は少なく、実際フランスへの抵抗を指導すべく結成されたスペイン中央評議会は広く支持された」[2]。イスパノアメリカ人の一部は独立が必要であると考えたが、最初期に新政府の成立を支持した者の多くはあくまでも地域の自主をフランスの支配から守るための手段として支持したにすぎなかった。しかし、その後の10年間はスペインが政情不安に見舞われ、フェルナンド7世治世下のスペインが「絶対主義王政復古」を遂げたことから、多くのイスパノアメリカ人は独立の必要性を痛感した。

戦闘では非正規戦も正規戦(英語版)も行われ、また民族解放戦争(英語版)と内戦としての一面もある。植民地の間の紛争、そしてスペインとの紛争の結果、南のアルゼンチンチリから北のメキシコまで多くの独立国が連鎖的に誕生した。キューバとプエルトリコは1898年の米西戦争までスペイン領に残った。これらの独立国は最初から人種区別と階級、カスタ制(英語版)、異端審問、貴族制度を廃止しており、奴隷制度もすぐには廃止されなかったが、独立から25年経過するまでに廃止された。政府では半島人(英語版)の代わりにクリオーリョ(米州生まれでスペイン血統の白人)とメスティーソ(白人とアメリカ先住民族の混血)が高位に就いた。社会階層では法的な階級が廃止されたが、文化的にはクリオーリョが頂点にあり続けた。以降1世紀近く、自由派と保守派(英語版)が政争を起こし、独立戦争の結果としておきた改革をさらに推進するか、元に戻すかで争った。

イスパノアメリカ独立戦争はハイチ革命、そしてブラジル独立とも関連している。うちブラジル独立はイスパノアメリカ独立と同じく、ナポレオン・ボナパルトイベリア半島侵攻に関連しており、1807年にポルトガル王家がブラジルに逃亡(英語版)したことがブラジル独立の起因となっている。また、ラテンアメリカ独立が進展した背景には啓蒙時代の理念が広まったことがあり、これは(アメリカ独立革命フランス革命を含む)大西洋革命の全てに影響を及ぼした。
背景イスパノアメリカ独立の進展
.mw-parser-output .legend{page-break-inside:avoid;break-inside:avoid-column}.mw-parser-output .legend-color{display:inline-block;min-width:1.5em;height:1.5em;margin:1px 0;text-align:center;border:1px solid black;background-color:transparent;color:black}.mw-parser-output .legend-text{}  伝統的なスペイン法制に基づく政府  最高中央評議会を支持する地域  米州でのフンタや反乱  独立を宣言した国、または直接建国した国  フランスによるイベリア半島支配

政治的に独立することはイスパノアメリカにおける政情不安から予定された結果ではなく、「完全独立への興味は少なかった」[2]。歴史家のロビン・ハンフリーズ(英語版)とジョン・リンチ(John Lynch)が述べたように、「不満の力、または変革の力を革命の力と同等視することは安易」であり[3]、その理由は「定義上、独立の歴史はそれが起きるまで存在しない」ことだった[注 4][4]。結果的にはイスパノアメリカが独立したため、それがおきた理由は広く研究された。

これまで主張された要因はいくつかある。まず、18世紀中期のブルボン改革により、スペイン本国による海外植民地帝国への支配が増し、イスパノアメリカとスペイン本国の関係が一変した。海外植民地帝国を指す用語が本国から独立した「王国」からスペイン属領である「植民地」へと格下げされた[5]。海外植民地の行政と経済をよりよく支配すべく、外部からの官僚(ほぼ全員が半島人(英語版))を海外植民地の官職に任命するという制度を復活させた。これにより、イスパノアメリカのエリート層は任官への道を閉ざされた[6]

スペイン本国の帝王教権主義と世俗化政策はカトリック教会の権力を削ぐことを目的としていた。1767年にはイエズス会士が追放されており(英語版)、イエズス会のクリオーリョ会士の多くも追放された。その後も聖職者の特権を削ごうとしており、聖職者の権威を霊的な事柄に限定させ、教区司祭の権力を低減させた[注 5][7]。しかし、歴史家のウィリアム・B・テイラー(英語版)によると、権力を聖界から世俗に移行させ、聖職者と真正面から敵対したことで、国王は自身の正当性を失った。これは教区司祭が伝統的に「カトリック国王の自然な現地代理人」であることが理由である[8]

スペイン本国は経済においても教会の収入を支配しようとした。1804年の財政危機において、国王カルロス4世は統合法(Act of Consolidation)を発布して、教会が貸した借金の返済を迫ろうとした(当時、イスパノアメリカのエリート層は主に所有するアシエンダを抵当を入れて教会から借款を申し込んでいた)。この法律は教会の富を脅かしたのと同時に、教会からの借款に依存したイスパノアメリカのエリート層の富をも脅かした。借金の返済期間が突如短縮されたことはエリート層の多くが破産に追い込まれることを意味した[9]。カルロス4世はさらにエリート家族が聖職者(聖職者がその家族の一員であることも多い)のためにとっておいた聖職禄にも手を伸ばそうとした。特に下級聖職者はこのカペリャニア(スペイン語版)と呼ばれた寄付金に依存したため[10]、主にメキシコの下級聖職者が独立のための反乱に参加した。一例としてはミゲル・イダルゴホセ・マリア・モレーロスがいる。

改革の成果は地域によって異なった。キューバ総督領リオ・デ・ラ・プラタ副王領ヌエバ・エスパーニャ副王領では成功して、現地経済と政府の効率が向上したが[11]、それ以外の地域では現地民との緊張関係が生じ、ヌエバ・グラナダ副王領のコムネロスの乱(英語版)やペルー副王領のトゥパク・アマルー2世の乱(英語版)が勃発した。

クリオーリョの高級官僚への道が閉ざされたことと、18世紀のスペイン領南米における反乱が数十年後の独立戦争の直接的な要因にはならなかったが、政治上の背景としては遠因となった[12]

それ以外の要因には啓蒙思想と大西洋革命の前例がある。啓蒙時代では社会改革と経済改革への切望がイスパノアメリカとイベリア半島全体に広まった。自由貿易と重農主義の思想はスペイン本国(英語版)から海外植民地に広まり、イスパノアメリカ啓蒙(英語版)の原動力となった。スペイン本国と独立戦争中のイスパノアメリカで施行された政治改革と起草された多くの憲法はこれらの要因の影響を受けたものである[13]
スペインとアメリカにおける新しい統治機構の創設(1808年-1810年)
ボルボン朝の崩壊詳細は「バイヨンヌの譲位(英語版)」、「ジョゼフ・ボナパルト治世下のスペイン」、および「半島戦争」を参照

半島戦争が正当な君主の不在という状況を引き起こしたことはイスパノアメリカにおける紛争の引き金になったのと同時に、1823年まで続く長きにわたるスペイン帝国の政情不安の始まりとなった。ナポレオンがカルロス4世フェルナンド7世を捕らえたことは政治危機を引き起こした。兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王に据えるというナポレオンの計画はスペイン帝国のほぼ全体で拒否されたが、国王不在の状況の解決策はなかった。君主制君主と臣民との契約であることを示したフランシスコ・スアレス以来の伝統的なスペインの政治理論に即して、イベリア半島諸州はフンタを結成した[14]


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