イストリア
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1914年第一次世界大戦が始まると、本来三国同盟の中に在ったイタリアは、オーストリアと対決する事で、「未回収のイタリア」を回復する事を望み、1915年連合国側に立って参戦した。第一次世界大戦における、オーストリア、イタリアの主戦線はイストリア半島西側を流れる、現イタリア、スロベニア国境地帯を流れるイゾンツォ川(ソチャ川)を挟んだ地域であった。1918年に、同盟国側の崩壊により、第一次世界大戦が終結すると、ラパッロ条約により、イストリア半島の全域がイタリア王国に併合される。
第二次世界大戦とトリエステ帰属問題「トリエステ自由地域」も参照

第二次世界大戦においては、イタリアの無条件降伏の後はドイツ軍が実質的な支配を行った。ドイツの降伏直前には北イタリア側からは連合軍が、南側からヨシップ・ブロズ・チトー率いる、パルチザンがイストリアの港湾都市トリエステに侵入。現在イタリア領になっている地域(右図A地区)をイギリス軍を主体とする連合軍が、現在スロベニアおよびクロアチア領となっている地域(右図B地区)をユーゴスラビア軍が占領した。ここでイタリアとユーゴスラビアとの間でトリエステの領有が問題になった。当時、ユーゴスラビアは完全にソ連側の陣営と見られていたため、重要港であるトリエステを東側に譲る事は、アメリカ合衆国イギリスにとってはありえない選択肢であった。一方ユーゴスラビア側から見れば、この地域における唯一の港湾を有していたのがトリエステで、同時にスロベニア地域からの唯一の外海への出口でも在ったため、譲れない問題であった。

この問題は国際連合への預かりとなり、1947年現在のイタリアとスロベニア領に当たる地域が国際連合安全保障理事会管理下の非武装中立地域となった。便宜的にイギリス軍占領地域のトリエステ中心部を「A地区」、ユーゴスラビア軍占領地域を「B地区」と呼んだ。その後冷戦の激化の中で両地域の経済的分断、人的交流の分断が進行した。1952年にはアメリカ、イギリスが「A地区」の自治をイタリアに任せる事で撤退し、国連安保理による統治は終結した。イタリアとユーゴスラビアとの領土問題1954年のロンドン覚書(イタリア語版)により現在のイタリアとスロベニア、クロアチアの境界線を確定させ、その後1975年オージモ条約でイタリアが「B地区」の領有を放棄する事で最終的に決着した。

スロベニアとクロアチアの境界線は1946年のユーゴスラビア内の各共和国、及び自治州の境界線を制定した時に設定された。この境界は1991年にスロベニア、クロアチア両国がユーゴスラビアから独立して以降も存続している。
外部リンク.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、イストリア半島に関連するメディアがあります。

世界飛び地研究会 国際管理地域「トリエステ県」 - ウェイバックマシン(2006年2月12日アーカイブ分)

座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯45度15分40秒 東経13度54分16秒 / 北緯45.26111度 東経13.90444度 / 45.26111; 13.90444

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