1192年、コンラートは正式に王位に就く直前に、暗殺教団によりティールで暗殺された[8]。このときイザベルは妊娠していたが、リチャード1世の提案により、リチャード1世の甥にあたるシャンパーニュ伯アンリ2世と結婚した[7]。イザベルは結婚後、のちにエルサレム女王となるマリーアを産んだ。1197年9月にアンリがアッコンで窓から落ちて死去すると、イザベルはキプロス王エメリー・ド・リュジニャンと四度目の結婚をした[9]。エメリーはギー・ド・リュジニャンの兄にあたり、1194年には弟ギーの死によりキプロス王となっていたが、この結婚によりエルサレム王を兼ねることとなった(エルサレム王アモーリー2世ともいわれる)[9]。
1205年、イザベルは死去し、娘のマリーアがエルサレム女王となった。 1183年、オンフロワ4世・ド・トロンと結婚したが、のち解消された。二人の間に子はなかった。 1190年、モンフェラート侯コンラート1世と結婚した。
子女
マリーア(1192年 - 1212年) - エルサレム女王(在位:1205年 - 1212年)
フィリパ(英語版)(1197年頃 - 1250年) - エラール・ド・ブリエンヌ(英語版)と結婚
アリス、フィリパ姉妹はともに、誕生とともにシャンパーニュ伯位を継承した幼少の従弟ティボー4世に対抗してシャンパーニュ伯位を請求して争った。
1197年、キプロス王エメリー・ド・リュジニャンと結婚した。
シビーユ(英語版)(1198年 - ?) - アルメニア王レヴォン2世(英語版)と結婚
メリザンド(英語版)(1200年頃 - ?) - アンティオキア公ボエモン4世(英語版)と結婚
脚注[脚注の使い方]^ A.ジョティンシュキー, p. 440-441
^ A.ジョティンシュキー、p. 152
^ A.ジョティンシュキー、p. 157
^ A.ジョティンシュキー、p. 159
^ a b A.ジョティンシュキー、p. 249
^ A.ジョティンシュキー、p. 255
^ a b A.ジョティンシュキー、p. 255
^ A.ジョティンシュキー、p. 251
^ a b A.ジョティンシュキー、p. 279
参考文献
A.ジョティンシュキー『十字軍の歴史』刀水書房、2013年
アシル・リッシェール 『フランス中世の社会 フィリップ=オーギュストの時代』 東京書籍、1990年
関連項目
エルサレム国王一覧
表
話
編
歴
エルサレム王
ブローニュ家
ゴドフロワ・ド・ブイヨン(聖墓守護者)1099-1100
ボードゥアン1世1100-1118
ルテル家
ボードゥアン2世1118-1131
メリザンド(共治)1131-1153
ガティネ家
フルク(共治)1131-1143
ボードゥアン3世1143-1162
アモーリー1世1162-1174
ボードゥアン4世1174-1185
アレラーミチ家
ボードゥアン5世1183-1186
ガティネ家
シビーユ(共治)1186-1190
ギー・ド・リュジニャン(共治)1186-1190/2
イザベル1世(共治)1190/2-1205
アンリ1世(共治)1192-1197
アモーリー2世(共治)1198-1205
アレラーミチ家
マリーア(共治)1205-1212
ブリエンヌ家
ジャン1世(共治)1210-1212
イザベル2世1212-1228
ホーエンシュタウフェン家
コンラート2世1228-1254