異母兄ボードゥアン4世はハンセン病であり、後継者ができないことがわかっていたため[2]、1183年には異母姉シビーユの子ボードゥアン5世
(英語版)が王位継承者となっていた[3]。イザベルは同年、前アンティオキア公ルノー・ド・シャティヨンの義理の息子にあたるオンフロワ4世・ド・トロンと結婚した。このときサラディンは結婚式を行っているカラク城を襲撃している。1186年、ボードゥアン4世の死後王位についたボードゥアン5世が即位1年で死去し、異母姉シビーユとその夫ギー・ド・リュジニャンがエルサレム王位に就いた[4]。しかし1190年秋にはシビーユおよびギーとの間の娘2人が相次いで死去し[5]、異母妹のイザベルが王位継承者となった。モンフェラート侯コンラート1世は、バリアン・ディブラン (Balian d'Ibelin) と再婚していたイザベルの母マリア・コムネナの協力を得て、イザベルとオンフロワとの結婚の無効を認めさせ[5]、1190年11月[6]にイザベルと結婚しエルサレム王位継承を主張した(ただし正式には王位についていない)。エルサレム王位を失ったギーは1192年にイングランド王リチャード1世によってキプロス王となっている[7]。1192年、コンラートは正式に王位に就く直前に、暗殺教団によりティールで暗殺された[8]。このときイザベルは妊娠していたが、リチャード1世の提案により、リチャード1世の甥にあたるシャンパーニュ伯アンリ2世と結婚した[7]。イザベルは結婚後、のちにエルサレム女王となるマリーアを産んだ。1197年9月にアンリがアッコンで窓から落ちて死去すると、イザベルはキプロス王エメリー・ド・リュジニャンと四度目の結婚をした[9]。エメリーはギー・ド・リュジニャンの兄にあたり、1194年には弟ギーの死によりキプロス王となっていたが、この結婚によりエルサレム王を兼ねることとなった(エルサレム王アモーリー2世ともいわれる)[9]。
1205年、イザベルは死去し、娘のマリーアがエルサレム女王となった。 1183年、オンフロワ4世・ド・トロンと結婚したが、のち解消された。二人の間に子はなかった。 1190年、モンフェラート侯コンラート1世と結婚した。
子女
マリーア(1192年 - 1212年) - エルサレム女王(在位:1205年 - 1212年)
フィリパ(英語版)(1197年頃 - 1250年) - エラール・ド・ブリエンヌ(英語版)と結婚
アリス、フィリパ姉妹はともに、誕生とともにシャンパーニュ伯位を継承した幼少の従弟ティボー4世に対抗してシャンパーニュ伯位を請求して争った。
1197年、キプロス王エメリー・ド・リュジニャンと結婚した。
シビーユ(英語版)(1198年 - ?) - アルメニア王レヴォン2世(英語版)と結婚
メリザンド(英語版)(1200年頃 - ?) - アンティオキア公ボエモン4世(英語版)と結婚
脚注[脚注の使い方]^ A.ジョティンシュキー, p. 440-441
^ A.ジョティンシュキー、p. 152
^ A.ジョティンシュキー、p. 157
^ A.ジョティンシュキー、p. 159
^ a b A.ジョティンシュキー、p. 249
^ A.ジョティンシュキー、p. 255
^ a b A.ジョティンシュキー、p. 255
^ A.ジョティンシュキー、p. 251
^ a b A.ジョティンシュキー、p. 279
参考文献
A.ジョティンシュキー『十字軍の歴史』刀水書房、2013年
アシル・リッシェール 『フランス中世の社会 フィリップ=オーギュストの時代』 東京書籍、1990年
関連項目
エルサレム国王一覧
表
話
編
歴
エルサレム王
ブローニュ家
ゴドフロワ・ド・ブイヨン(聖墓守護者)1099-1100
ボードゥアン1世1100-1118
ルテル家
ボードゥアン2世1118-1131
メリザンド(共治)1131-1153
ガティネ家
フルク(共治)1131-1143
ボードゥアン3世1143-1162
アモーリー1世1162-1174
ボードゥアン4世1174-1185