翌1327年1月、王の召還を経ず、出席もしない議会[10]でエドワード2世の廃位が議決され、皇太子エドワードが後継者に選ばれた。一種の民衆集会による廃位の手続きが取られたことは王国の諸身分の代表を通じて表明される国民の総意は王位すら左右できることの前例となった点でイギリス立憲主義に大きな意義があった[1]。
皇太子は当時15歳だったが、即位の経緯に危うさを感じ、父から正式な譲位がなければ王位継承はしないと返答し、そのため議会は1月20日にエドワード2世から譲位の文書を取り、それを確認した後にエドワード3世として即位した[11]。
またエドワード2世を救出する企図が二度あったため、その生存を危険視したイザベラの示唆によりエドワード2世は獄中で秘密裏に殺害された[12]。 議会はランカスター伯を国王警護役に指名したが、実権はイザベラとその愛人ロジャー・モーティマーが握った[13]。1328年1月にヨーク・ミンスターで挙行されたエドワード3世とフィリッパの結婚式もイザベラが取り仕切った[14]。 スコットランド王ロバート1世は少年王の即位を好機とみてイングランド北部への侵攻を開始した。軍資金の確保に苦しむイザベラとモーティマーは、戦争継続は不可能と判断してロバート1世に講和を懇願し、エディンバラ=ノーサンプトン条約
国政主導
イザベラの愛人であるモーティマーはイザベラの寵愛を盾にウェールズや辺境地域で巨大な勢力を築き、1328年10月の議会でウェールズ辺境伯(マーチ伯)の称号を受けた[16]。モーティマーの急速な昇進はランカスター伯、初代ノーフォーク伯トマス・オブ・ブラザートン(エドワード1世と後妻マーガレットの間の長男)、初代ケント伯エドムンド・オブ・ウッドストック(英語版)(同次男)ら王族に連なる諸侯の反発を招き、イザベラやモーティマーら宮廷派と、ランカスター伯らランカスター派の対立が顕在化した[17]。
やがてランカスター派は宮廷派に抑え込まれ、1330年春の議会ではケント伯が反逆罪で公開裁判にかけられた末に処刑された[18]。しかしこの時18歳になっていたエドワード3世は、母とモーティマーの独断でのケント伯処刑に憤慨していた[19]。
エドワード3世のクーデタマーチ伯ロジャー・モーティマーを逮捕するエドワード3世とそれを制止しようとするイザベラを描いた絵画
エドワード3世は成年に近づくにつれて母とモーティマーによる国政壟断に不満を抱くようになり、親政を開始する機会を探るようになった。そして1330年10月にノッティンガムで諸侯の会議が行われている最中にモーティマーをクーデタ的に逮捕、モーティマーは11月末に召集した議会において絞首刑が宣告されて処刑された。イザベラは見逃されるも政治から引退することとなった[20]。
失脚後の晩年1327年にイザベラが購入したライジング城(英語版)
失脚直後の頃はバーカムステッド城(英語版)やウィンザー城で幽閉されていたが[21]、1332年に解放されてイザベラ所有のノーフォーク・ライジング城(英語版)を生活の本拠とするようになった。ヴィクトリア朝の歴史家アグネス・ストリックランド(英語版)によるとこの頃の彼女は時々狂気になったといい、恋人モーティマーの死で神経衰弱していたのではと推測している[21]。
イザベラの所領の多くは没収されたものの、3000ポンドの年金を支給されたため、失脚後も裕福な生活を送った[22][23]。さらに1337年には年金が4000ポンドに増加された[21]。吟遊詩人や狩猟家、馬丁などを召し抱え、様々な高級品を収集していた[24]。エドワード3世やその息子たちもしばしば彼女のもとを訪れている[25]。またイングランド各地を旅行した。1342年にはフランスとの和平交渉のためにパリを旅行する計画があったが、これは実現しなかった[26]。
彼女はアーサー王の伝説と宝石に関心を持ち続け、 1358年の聖ジョージの日のウィンザーでの祝賀会に300のルビーと1800のパールを使ったシルクのドレスと金のサークレットを付けて出席している[21]。また晩年には占星術や幾何学に関心を寄せていたようである[27]
1358年8月22日にハートフォード城(英語版)で死去し、遺言でモーティマーの眠るグレイフライアーズ教会(英語版)へ埋葬された。ライジング城を含む遺産はお気に入りの孫だったエドワード黒太子に遺贈している[28] エドワード2世との間に4人の子女をもうけた。
子女
エドワード3世(1312年 - 1377年) - イングランド王
ジョン
エリナー(1318年 - 1355年) - 1332年、ゲルデルン公ライナルト2世(ドイツ語版)と結婚
ジョーン(1321年 - 1362年) - 1328年、スコットランド王デイヴィッド2世と結婚
脚注^ a b 青山吉信(編) 1991, pp. 292?293.