イコン
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イコンを書く者は、聖伝の中に生き、正教の共同体の一員であり、いつも機密的生活の内にいなければならない。真のイコン画家にとりイコンの制作は習練と祈りの道、修道の道そのものであり、この世と肉体の情念と欲からの解放がなされ、人の意志が神の意志に従えられていなければならない。真のイコン画家は自分のため、もしくは自分の光栄のためにではなく、神の光栄のために働く[21]

従って原則としてイコン画家はイコンに自分の名を記さない。例外的に記名する場合にも「?によって」「?の制作」「?の手によって」「?の手」といった言葉を付ける。これはイコンの制作課程の中に神聖なものが入り、神の恩寵がイコン画家の心を照らして、彼の手を導くと感じられることによる[21]
歴史

東西教会の分裂がはっきりとするまでの歴史は正教会西方教会とに共有される部分も大きいが、ここでは正教会に連なる歴史というかたちで詳述する。
初期(7世紀まで)自印聖像の逸話が書かれたイコン(10世紀蝋画法によるイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)のイコン(6世紀頃、シナイ半島聖カタリナ修道院所蔵)

全てのイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)の顔が画かれたイコンの原型となっているのは、『手にて描かれざるイコン』とも呼ばれる『自印聖像』である。これは、イイススが顔を洗い、自らの顔を布に押し当てると、イイススの顔が布に写るという奇蹟が起きたことによるものであると、教会の伝承は伝えている[22](ただし『自印聖像』のオリジナルは、1204年第四回十字軍コンスタンティノープルを蹂躙した際に失われた)[12]

伝承によれば、聖使徒ルカによって生神女マリヤの存命中に彼女が画かれたイコンが最初のイコンだとされている[注釈 1]。『ウラジーミルの生神女』は、聖使徒ルカによるものとして正教会では伝えられている[22]

ただし上記二つの伝承はあくまで教会が伝える伝承であり、歴史学・考古学において確認されたものではない。

ダマスコのイオアン金口イオアンの生涯について書いた著作の中では、金口イオアンが聖使徒パウロのイコンを自分の前に置いてパウロ書簡を読んでいたと記されている。ニッサの聖グリゴリイ(ニュッサのグレゴリオス)はイサクの燔祭のイコンを見て、深く感動したことを語っている[23]

4世紀の著作家エウセビオスは、ハリストス(キリスト)に癒しを受けた血友病の女(マタイによる福音書 9:20 - 23)の家に建てられたハリストスの立像のことを書き残している。また彼は、生前に書かれたハリストス、ペトロパウロの肖像画が同時代に保存されていたことを記録している[24]

他方、初期にはイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)と象徴的に結び付けられた魚・子羊・牧者・鳩・葡萄の枝などが広く用いられたが、4世紀にキリスト教が公認されて以降、人の姿が画かれたイコンが広まっていった[25]6世紀以降は、ヘレニズムオリエント文化(特にシリア)の教会の信仰の影響のもとに、イコンの数や各種表現が増えて、整えられて成熟していった[26]

イコンは(いつごろからあったのか正確な年代は不明であるが)初期から存在していた一方で、イコンを否定する議論も初期から存在していた。

最初から議論になったのはイコンが偶像崇拝に当たるのではないかという疑いである。キリスト教では(ユダヤ教イスラームも同様であるが)偶像崇拝を禁じている。その根拠となるのは旧約聖書に記された十戒の第二戒(出エジプト記 20:4 - 6[27]申命記 5:8 - 10)である[28]

エウセビオスは先述の通り、ハリストス(キリスト)や使徒達の肖像画・立像が当時存在していたことを記録した著作家であるが、一方でそうした画像自体に対しては否定的であった。エウセビオスは皇帝の異母妹コンスタンティアからハリストスの肖像画を所望されたことへの返信の中で、「ハリストス(キリスト)の栄光」を「死んだ色と生命の無い絵で描く事」の不可能性に言及してこれを断っている[29]
聖像破壊運動(イコノクラスム、8世紀から9世紀前半)詳細は「イコノクラスム」を参照

7世紀イスラムが興り、東ローマ帝国と戦火を交えるようになると、一切の宗教画を用いないイスラムに影響されて、イコン(聖像)を否定する考えが教会内に広がった[30]

726年から、東ローマ帝国皇帝レオン3世は、本格的に聖像廃止に取り掛かった(同年、サントリーニ火山が噴火しており、皇帝はこれを神からのイコンへの怒りと解釈した)。727年には、宮殿の門にかかっていたハリストス(キリスト)のイコンを破壊しようとしていた兵士たちが、イコン廃止に反対する婦人たちによって梯子から引きずり落とされ死傷者が出た事件をきっかけに、イコン賛成者たちは海軍とともに反乱を起こした。反乱は皇帝によってすぐに鎮圧されたが、これが帝国中におけるイコンの是非を巡る論争の始まりであった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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