イギー・ポップ
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このツアーのハイライトは1981年11月30日と12月1日にポンティアック・シルバードームで行われたスタジアムライブで、ローリング・ストーンズのサポートアクトとして参加した[注 82][注 83][9]
この時のイギーのステージ衣装は、革ジャンにミニスカートという組み合わせで、ミニスカートの下は下着なしでストッキングを履いており、事実上、局部を露出した状態だった。この服装で観客を罵倒し始めたため、様々なものがステージ目掛けて投げつけられた[73]。ステージが終了し、バンドがバックヤードに戻ると、プロモーターのビル・グレアム(英語版)は意外にも大喜びしていて、片付けたスタッフに作らせた投擲物のリストをイギーに示し、次にメインのローリング・ストーンズが控えている[73]にも関わらず、イギーにステージへ戻ってそのリストを読み上げて「贈り物」のお礼を言おうとけしかけた。イギーはこれに応え、グレアムとともにステージに戻り「以下の贈り物に感謝する。」と述べた後、戸惑う観客たちに向けて雄叫びで合いの手を入れながら、リストに書かれた投擲物を1つ1つを読み上げた[74][注 84][注 85]
それから1週間ほど後に、フォロー・ザ・サン・ツアーは終了し、イギーはニューヨークに戻った。[注 86]
乱痴気騒ぎのようなフォロー・ザ・サン・ツアーの状況をゲストのカルロス・アロマーや、クレム・バークは楽しんでいた[注 87]が、ギタリストのゲイリー・ヴァレンタインはついていけず、ツアー終了後にバンドを離脱した[9]
ゾンビー・バードハウス

ニューヨークに落ち着いたイギーはブロンディの中心人物、クリス・ステイン(英語版)から、彼が設立したインディーレーベル、アニマル・レコーズ[76]からの新作リリースを提案された[注 88]。インディーレーベルにしては十分な前渡金を受け取ったイギーは、ギタリストのロブ・デュプレイに前渡金の一部を渡して作曲パートナーとし、1982年初頭から曲の準備を開始した[10]
レコーディングは、ニューヨークのブランクテープ・スタジオ[78]で行われ、同年4月頃に終了する[注 89]と、イギーは恋人で写真家のエスター・フリードマンとともにジャケット写真撮影のためにハイチに渡った。当初の予定では数週間程度の滞在予定だったが、様々な騒動に巻き込まれて滞在費を使い果たしてしまい、フリードマンの金策が実るまで3ヶ月ほど滞在することになった[注 90][注 91]
フリードマンは帰国後にイギーにアルコールと薬物の依存症治療を受けさせるため、ハイチから離れる前にイギーの元内縁の妻であるポーレット・ベンソン[注 92]に連絡を取り、ノースリッジ病院(英語版)への入院を承諾させた[注 93]。ロサンゼルスの空港で3人が落ち合うと、ベンソンが承諾書にサインして、イギーはそのまま入院することになった。フリードマンはニューヨークに戻ってジャケット写真をステインに渡し、止まっていた新作のリリース準備が進むことになった[10]
イギー退院後の1982年9月、新作『ゾンビー・バードハウス(英語版)』がアニマル・レコーズからクリサリス・レコード配給でリリースされ、ローリング・ストーン誌といった音楽メディアで比較的高い評価を得ることに成功した[80][81]
翌10月、イギーは『ゾンビー・バードハウス』のプロモーションと収入確保[注 94]を兼ねた初のワールドツアーを開始した。2ヶ月間でヨーロッパと北米を回り、ニューヨークで短期間の休息とメジャーレーベルとの契約を目指した活動[注 95]を行なった後に、それまでは「ゾンビー・バードハウス・ツアー」と名乗っていたツアーの名称を「ブレイキング・ポイント・ツアー」と変更して、1983年2月から再開した。しばらく北米を巡った後、6月に日本に向かった[54][注 96]。日本では将来の配偶者となるアサノ・スチと知り合い[82]、そのままツアーに同行させてオセアニア方面に向かうが、オーストラリアでライブ中に負傷した女性から訴訟を起こされたため、その後のツアーは全てキャンセルし、7月にアメリカに帰国することになった[10]
休養期間、そしてデヴィッド・ボウイとの再会: 1983年 - 1985年

ブレイキング・ポイント・ツアーを終了してからのイギーは、依存症治療に取り組むとともに心身と生活の立て直しに専念し、音楽業界の表舞台からしばらく身を引くことになった。
レポマン

1983年7月、スチと共にロサンゼルスに滞在したイギーは、再びダニー・シュガーマンに勧められ、著名な医学者マレイ・ザッカー[83]指導の下で、再度の依存症治療に取り組んだ[10][注 97][注 98]
イギーは最終的に11月までロサンゼルスに滞在し、その間にシュガーマンに誘われて映画「レポマン」のサウンドトラック製作に参加することになった。このサウンドトラックでイギーは、チェッカード・パスト(英語版)のメンバー[注 99]をバックバンドに従えて、表題曲のヴォーカルを務めるとともに、同曲の作曲にも関わった。[注 100][10]
デヴィッド・ボウイとの再会

1983年8月、デヴィッド・ボウイがイギーとの共作曲「チャイナ・ガール」を大ヒットさせ、このヒットからもたらされた印税収入により、イギーの経済的な苦境は一気に解決されることになった[注 101]
1983年12月、シリアス・ムーンライト・ツアーを終了したボウイからの誘いを受けて、休暇先のインドネシアに向かったイギーは、後にアルバム『トゥナイト』に収録されることになる「タンブル・アンド・トゥワール」をボウイと共作し、『ラスト・フォー・ライフ』以来のコラボレーションを復活させた。
翌1984年5月、ボウイが『トゥナイト』のレコーディングを開始し、イギーはこれに5日間参加して「ダンシング・ウィズ・ザ ・ビッグボーイズ」の共作とデュエットを行った[注 102]。この『トゥナイト』への参加は、収入面だけでなく、表立った音楽活動を控えていたイギーの名前を広めるのに役立った。スーパースターとなっていたボウイと頻繁に協業したことでセレブの仲間入りを果たし、ピープル誌に生活振りが取り上げられるような存在となっていった[10]
1984年9月、ボウイがNMEのインタビューで来年予定しているプロジェクトとして「イギーとのアルバムレコーディング」を挙げ、イギーが新作の準備に取り掛かっていることを示唆した。一方で、イギーは当初単独で準備を行う予定だったが、思うような進捗とならなかったため、「レポマン」で協業したスティーヴ・ジョーンズに声をかけ、1985年6月頃から2人で作曲を開始した。10月頃に2人で9曲収録のデモテープを作り上げると、11月頃ボウイに披露し、これをボウイが気に入ったことから、レコーディングプロジェクトが本格的に始動した[10]
また、同じ1985年、イギーは新しいマネージャー、アート・コリンズ[注 103]と契約し、ビジネス面でも準備を進めていった[10]
ブラー・ブラー・ブラー: 1986年 - 1987年俺のやったあらゆる過激な事は、もともと俺の中にあったものなんだ。ただこのところ、刺激に頼らずに自分の作品をもっと覚醒したものにする、という新しいやり方を取り入れたんだ。10分ほど魚みたいにのたうち回ってあとはひっくり返っちゃうなんていうのじゃなく、今後はおそらくもっと興奮のエネルギーが長続きするようになるだろうね[68]
ブラー・ブラー・ブラーピンクポップ1987 バークトスポーツ公園 1987年6月8日[85]


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