イギー・ポップ
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実際、この後からクラールはイギーの右腕として様々な要求に応えていくことになる[9]
^ イギーのマネージャー、ビーター・デイヴィスはマネジメントを放棄して「(ウィリアムソンに続いて)次は自分がクビになる番だ。」と嘆くだけだったという[10]
^ プログレッシブ・ロックバンド、スプリング (ブログレッシブ・ロックバンド)(英語版)の元メンバー。この後、ロバート・プラントルー・グラムの常連プロデューサーとして活躍する[60]
^ キーボードのバリー・アンドリュースもレコーディング終盤に干されるような扱いを受けたため、ツアーには同行しなかった。キーボードはアイヴァン・クラールがギター兼任で務めた[10]
^ イギーはツアーの開始に合わせて、西ベルリンを離れてニューヨークに引っ越している[9]
^ ブライアン・ジェームズはこの時のツアーの様子を「ひたすらホテルとステージを往復しているだけで、 途中からどのホテルにいるのか、それが何時なのかさえも分からなくなるような状況だった。」と語っている[9]
^ クラールによると、当時のイギーはクラールも含め、雇用関係にあるバックバンドのメンバーは対等なバンドメイトとして扱わない節があり、ブライアンはその点についても不満を漏らしていたという[10]
^ この後にメンバーとなるマイケル・ペイジによれば、この時期のイギーはライブのチケット売上が主な収入源だったこともスケジュールがタイトになった原因だという。イギーの集客力はアルバムセールスに関係なく高かったため、ブッキングエージェントも多数の会場確保が可能だった[10]
^ ロックフィールド・スタジオに詰めていたアリスタのスタッフ(ジュリー・フッカー)は「レコーディングの終了は救いだった。」と語っている[10]
^ニューヨーク・ドールズのシルヴェイン・シルヴェイン(英語版)が結成したザ・クリミナルズを経て、チャビー・チェッカージェリー・リー・ルイスのバックバンドに在籍していた。またストゥージズを解散してロサンゼルスに住んでいた頃のイギーとは面識があった。ペイジは後に「今のバンドメンバーは外国生まればかりだから1人くらいアメリカ生まれを呼びたい。」とイギーが言い出したから、自分は演奏を聴かせていないのに合格した、と語っている[63]
^ アメリカのビルボードでは最高位126位[64]、イギリスのオフィシャルチャーツでは最高位62位[48]だった。
^ フィル・フィリップス(英語版)の「シー・オブ・ラブ」とジ・アウトサイダーズ(英語版)の「タイム・ウォント・レット・ミー(英語版)」。
^ モンキーズのソングライターチーム「トミー&ボイス」のメンバーとして著名だが、この頃は50’sロックンロールのリバイバルバンド、ダーツ (バンド)(英語版)をプロデュースし、ヒットさせていた。
^ これらのツアーはイギーの収入確保が主な目的だった。幸いイギーの集客力は高かったため、ブッキングエージェントから経費の前借りが可能だった[9]
^ 2020年現在、マネジメント会社セントラル・ヨーロピアン・オーガニゼーションの代表。イギーの活動全般のマネジメントを行っている[65]。リッチ・キッズのロードマネージャーだったが、バンド解散後、元メンバーのグレン・マトロックがイギーのバンドに参加した際に誘われた。以降、長くイギーのロードマネージャーを務めることになった[9][10]
^ ロン・アシュトンによると、イギーの扱いについてクラールから電話で相談があったので「イギーはいつも自分中心でいたがるから、やりたいようにやらせるしかない。」と答えたという[9][66]
^ クラールによると、後にイギーがボウイと一緒にいるところに偶然出くわした際、ボウイから「君はイギーに借りがあるらしいな」と責められたという[9]
^ ビルボードチャート最高位166位[67]、オフィシャルチャーツでは100位に入らず正確な順位は公表されていない[48]
^ イギーにプレッシャーをかけていたものの、アリスタ内では庇護者でもあったチャールズ・レヴィンソンがWEA(当時)に移籍していたことも影響した[10]
^ 当時のアリスタのA&R部門の統括者ターキン・ゴッチは「イギーから信頼を得る努力をしようとしなかったこちらにも問題があったと思う」と後に語っている[10]
^ ゲイリー・ヴァレンタインは後に「イギーは確かにパンクのゴッドファーザーだったが、当時のアメリカにはそもそもパンクスが地方にいなかった。1つの地方都市にせいぜい数百人単位程度だった。」と語り、この肩書きは当時のアメリカのマーケットに向かなかったのではないか、という見解を示した[9]
^ 1990年代までは評価の低かったアリスタ時代の作品だが[69]、2000年にアリスタがリマスタリング盤を再発したことをきっかけにピクシーズブラック・フランシスが『ニュー・ヴァリューズ』を自身のベストアルバムに挙げるなど評価が高まっている[70]。また、豪華なメンバーが揃ったこの当時のライブ盤が英イージーアクションレーベルから多数リリースされている(『ホエア・ザ・フェイシズ・サンシャイン』[71]、『カリフォルニア・ヒッチハイク』[72]など。)。
^ デヴィッド・ボウイが『スケアリー・モンスターズ』のリリースに伴うツアーを中止したため、スケジュールに空きができていた。
^ キース・リチャーズの誘いで参加した。また、この時はドラマーのダグラス・バウンが離脱していたが、代役がブロンディのドラマー、クレム・バーク(英語版)で、かなり豪華なメンバー構成となっていた[9]
^ クレム・バークによると、キース・リチャーズは気さくな態度を取ってくれたが、ミック・ジャガーは挨拶一つしてくれなかったため、イギーをかなり怒らせていたという[73]
^ ライター、ヘアブラシ、スニーカー、帽子、ブラジャー、コルセットといったものが記載されていたという[74]

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