イギー・ポップ
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1983年7月、スチと共にロサンゼルスに滞在したイギーは、再びダニー・シュガーマンに勧められ、著名な医学者マレイ・ザッカー[83]指導の下で、再度の依存症治療に取り組んだ[10][注 97][注 98]
イギーは最終的に11月までロサンゼルスに滞在し、その間にシュガーマンに誘われて映画「レポマン」のサウンドトラック製作に参加することになった。このサウンドトラックでイギーは、チェッカード・パスト(英語版)のメンバー[注 99]をバックバンドに従えて、表題曲のヴォーカルを務めるとともに、同曲の作曲にも関わった。[注 100][10]
デヴィッド・ボウイとの再会

1983年8月、デヴィッド・ボウイがイギーとの共作曲「チャイナ・ガール」を大ヒットさせ、このヒットからもたらされた印税収入により、イギーの経済的な苦境は一気に解決されることになった[注 101]
1983年12月、シリアス・ムーンライト・ツアーを終了したボウイからの誘いを受けて、休暇先のインドネシアに向かったイギーは、後にアルバム『トゥナイト』に収録されることになる「タンブル・アンド・トゥワール」をボウイと共作し、『ラスト・フォー・ライフ』以来のコラボレーションを復活させた。
翌1984年5月、ボウイが『トゥナイト』のレコーディングを開始し、イギーはこれに5日間参加して「ダンシング・ウィズ・ザ ・ビッグボーイズ」の共作とデュエットを行った[注 102]。この『トゥナイト』への参加は、収入面だけでなく、表立った音楽活動を控えていたイギーの名前を広めるのに役立った。スーパースターとなっていたボウイと頻繁に協業したことでセレブの仲間入りを果たし、ピープル誌に生活振りが取り上げられるような存在となっていった[10]
1984年9月、ボウイがNMEのインタビューで来年予定しているプロジェクトとして「イギーとのアルバムレコーディング」を挙げ、イギーが新作の準備に取り掛かっていることを示唆した。一方で、イギーは当初単独で準備を行う予定だったが、思うような進捗とならなかったため、「レポマン」で協業したスティーヴ・ジョーンズに声をかけ、1985年6月頃から2人で作曲を開始した。10月頃に2人で9曲収録のデモテープを作り上げると、11月頃ボウイに披露し、これをボウイが気に入ったことから、レコーディングプロジェクトが本格的に始動した[10]
また、同じ1985年、イギーは新しいマネージャー、アート・コリンズ[注 103]と契約し、ビジネス面でも準備を進めていった[10]
ブラー・ブラー・ブラー: 1986年 - 1987年俺のやったあらゆる過激な事は、もともと俺の中にあったものなんだ。ただこのところ、刺激に頼らずに自分の作品をもっと覚醒したものにする、という新しいやり方を取り入れたんだ。10分ほど魚みたいにのたうち回ってあとはひっくり返っちゃうなんていうのじゃなく、今後はおそらくもっと興奮のエネルギーが長続きするようになるだろうね[68]
ブラー・ブラー・ブラーピンクポップ1987 バークトスポーツ公園 1987年6月8日[85]

1985年12月、イギーとボウイはカリブ海のマスティク島に滞在し、3ヶ月かけて新作のための曲を共作した[注 104]
翌1986年5月、スイスモントルーマウンテン・スタジオに移り、ボウイとの共同プロデューサーとしてデヴィッド・リチャーズ(英語版)を迎え、レコーディングを行った[注 105][注 106]
レコーディング終了後に配布されたテープにはA&Mヴァージン・アメリカが反応し、最終的ににA&Mが500,000ドルの契約金を提示して、配給権を獲得した[10]
1986年10月23日、『ブラー・ブラー・ブラー(英語版)』と名付けられた4年振りの新作がリリースされた。A&Mはこのアルバムを慎重にプロモートすることを心がけた。PR写真は休養期間中に獲得したセレブレティイメージそのままの物を使用し[注 107]、リリースに伴うツアーはイギーの人気が高く、集客を見込め、その後のプロモート用映像に使用する際にも好都合な大都市を重点的に回る短期間のものに留めた[54]。その他の地域ではテレビ出演を中心としたプロモートに徹し、新曲「リアル・ワイルド・チャイルド (ワイルド・ワン)(英語版)」の宣伝に努めた[注 108]。イギーもこれまでと異なり、レーベルの期待通りの応対を各所で見せ、アルバムやシングルのセールス寄与に気を配った[注 109][10][9][90]
結果的に『ブラー・ブラー・ブラー』は、イギーのアルバムとしては『イディオット』以来のビルボード100位以内にチャートイン(最高位72位)し[91]、イギリスでも『ラスト・フォー・ライフ』以来の50位以内(最高位43位)を記録した[48]。イギリスではこれに加えてシングル「リアル・ワイルド・チャイルド (ワイルド・ワン)」がチャート最高位10位を記録し[48]、イギーのヨーロッパにおける人気の高さと、商業的な可能性を改めて証明することになり、音楽業界第一線への復帰に花を添えた。
リスキー

1987年、リリースに伴う短期間のツアーから、プリテンダーズのサポートアクトとしてツアーを再開させる[54]までの間、イギーは坂本龍一のアルバム『ネオ・ジオ』に歌詞とヴォーカルを提供した。これは坂本からの要望ではなく[注 110]、本作の共同プロデュースを務めたビル・ラズウェルからの要請に応えたもので[注 111]、イギーはラズウェルとともにハワイにあるジョージ・ベンソン所有のスタジオでヴォーカルを収録した[9]。この曲「リスキー」は日本国内で坂本が出演した日産セドリックのCMに採用され[92]、日本国内でのイギーの知名度向上に寄与した。また、このコラボレーションが成功したことで、イギーとラズウェルの間に交流が生まれ、2人はイギーの自宅で次作に関するプランを頻繁に話し合うことになった[10]
ブラー・ブラー・ブラー以降

その後も、ヘヴィメタルグランジといったハードロックの新たなムーヴメントが起こるたびに評価が高まるというキャリアを送る中、元セックス・ピストルズスティーヴ・ジョーンズ(『ブラー・ブラー・ブラー』『インスティンクト』『アメリカン・シーザー』)、ガンズ・アンド・ローゼズスラッシュダフ・マッケイガン(『ブリック・バイ・ブリック』)、ライ・クーダージャクソン・ブラウンとのセッションで知られるデヴィッド・リンドレー(『ブリック・バイ・ブリック』)、ボブ・ディランローリング・ストーンズボニー・レイットを手がけたプロデューサーのドン・ワズ(『ブリック・バイ・ブリック』『アベニューB』)など充実したメンバーたちと活動する。USAオースティン公演(2007年5月)

1996年、大ヒットした映画『トレインスポッティング』の挿入歌に『ラスト・フォー・ライフ』が使用された事で世界的に再評価される。


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