イギー・ポップ
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インディーレーベルにしては十分な前渡金を受け取ったイギーは、ギタリストのロブ・デュプレイに前渡金の一部を渡して作曲パートナーとし、1982年初頭から曲の準備を開始した[10]
レコーディングは、ニューヨークのブランクテープ・スタジオ[78]で行われ、同年4月頃に終了する[注 89]と、イギーは恋人で写真家のエスター・フリードマンとともにジャケット写真撮影のためにハイチに渡った。当初の予定では数週間程度の滞在予定だったが、様々な騒動に巻き込まれて滞在費を使い果たしてしまい、フリードマンの金策が実るまで3ヶ月ほど滞在することになった[注 90][注 91]
フリードマンは帰国後にイギーにアルコールと薬物の依存症治療を受けさせるため、ハイチから離れる前にイギーの元内縁の妻であるポーレット・ベンソン[注 92]に連絡を取り、ノースリッジ病院(英語版)への入院を承諾させた[注 93]。ロサンゼルスの空港で3人が落ち合うと、ベンソンが承諾書にサインして、イギーはそのまま入院することになった。フリードマンはニューヨークに戻ってジャケット写真をステインに渡し、止まっていた新作のリリース準備が進むことになった[10]
イギー退院後の1982年9月、新作『ゾンビー・バードハウス(英語版)』がアニマル・レコーズからクリサリス・レコード配給でリリースされ、ローリング・ストーン誌といった音楽メディアで比較的高い評価を得ることに成功した[80][81]
翌10月、イギーは『ゾンビー・バードハウス』のプロモーションと収入確保[注 94]を兼ねた初のワールドツアーを開始した。2ヶ月間でヨーロッパと北米を回り、ニューヨークで短期間の休息とメジャーレーベルとの契約を目指した活動[注 95]を行なった後に、それまでは「ゾンビー・バードハウス・ツアー」と名乗っていたツアーの名称を「ブレイキング・ポイント・ツアー」と変更して、1983年2月から再開した。しばらく北米を巡った後、6月に日本に向かった[54][注 96]。日本では将来の配偶者となるアサノ・スチと知り合い[82]、そのままツアーに同行させてオセアニア方面に向かうが、オーストラリアでライブ中に負傷した女性から訴訟を起こされたため、その後のツアーは全てキャンセルし、7月にアメリカに帰国することになった[10]
休養期間、そしてデヴィッド・ボウイとの再会: 1983年 - 1985年

ブレイキング・ポイント・ツアーを終了してからのイギーは、依存症治療に取り組むとともに心身と生活の立て直しに専念し、音楽業界の表舞台からしばらく身を引くことになった。
レポマン

1983年7月、スチと共にロサンゼルスに滞在したイギーは、再びダニー・シュガーマンに勧められ、著名な医学者マレイ・ザッカー[83]指導の下で、再度の依存症治療に取り組んだ[10][注 97][注 98]
イギーは最終的に11月までロサンゼルスに滞在し、その間にシュガーマンに誘われて映画「レポマン」のサウンドトラック製作に参加することになった。このサウンドトラックでイギーは、チェッカード・パスト(英語版)のメンバー[注 99]をバックバンドに従えて、表題曲のヴォーカルを務めるとともに、同曲の作曲にも関わった。[注 100][10]
デヴィッド・ボウイとの再会

1983年8月、デヴィッド・ボウイがイギーとの共作曲「チャイナ・ガール」を大ヒットさせ、このヒットからもたらされた印税収入により、イギーの経済的な苦境は一気に解決されることになった[注 101]
1983年12月、シリアス・ムーンライト・ツアーを終了したボウイからの誘いを受けて、休暇先のインドネシアに向かったイギーは、後にアルバム『トゥナイト』に収録されることになる「タンブル・アンド・トゥワール」をボウイと共作し、『ラスト・フォー・ライフ』以来のコラボレーションを復活させた。
翌1984年5月、ボウイが『トゥナイト』のレコーディングを開始し、イギーはこれに5日間参加して「ダンシング・ウィズ・ザ ・ビッグボーイズ」の共作とデュエットを行った[注 102]。この『トゥナイト』への参加は、収入面だけでなく、表立った音楽活動を控えていたイギーの名前を広めるのに役立った。スーパースターとなっていたボウイと頻繁に協業したことでセレブの仲間入りを果たし、ピープル誌に生活振りが取り上げられるような存在となっていった[10]
1984年9月、ボウイがNMEのインタビューで来年予定しているプロジェクトとして「イギーとのアルバムレコーディング」を挙げ、イギーが新作の準備に取り掛かっていることを示唆した。一方で、イギーは当初単独で準備を行う予定だったが、思うような進捗とならなかったため、「レポマン」で協業したスティーヴ・ジョーンズに声をかけ、1985年6月頃から2人で作曲を開始した。10月頃に2人で9曲収録のデモテープを作り上げると、11月頃ボウイに披露し、これをボウイが気に入ったことから、レコーディングプロジェクトが本格的に始動した[10]
また、同じ1985年、イギーは新しいマネージャー、アート・コリンズ[注 103]と契約し、ビジネス面でも準備を進めていった[10]
ブラー・ブラー・ブラー: 1986年 - 1987年俺のやったあらゆる過激な事は、もともと俺の中にあったものなんだ。ただこのところ、刺激に頼らずに自分の作品をもっと覚醒したものにする、という新しいやり方を取り入れたんだ。10分ほど魚みたいにのたうち回ってあとはひっくり返っちゃうなんていうのじゃなく、今後はおそらくもっと興奮のエネルギーが長続きするようになるだろうね[68]
ブラー・ブラー・ブラーピンクポップ1987 バークトスポーツ公園 1987年6月8日[85]

1985年12月、イギーとボウイはカリブ海のマスティク島に滞在し、3ヶ月かけて新作のための曲を共作した[注 104]
翌1986年5月、スイスモントルーマウンテン・スタジオに移り、ボウイとの共同プロデューサーとしてデヴィッド・リチャーズ(英語版)を迎え、レコーディングを行った[注 105][注 106]
レコーディング終了後に配布されたテープにはA&Mヴァージン・アメリカが反応し、最終的ににA&Mが500,000ドルの契約金を提示して、配給権を獲得した[10]
1986年10月23日、『ブラー・ブラー・ブラー(英語版)』と名付けられた4年振りの新作がリリースされた。A&Mはこのアルバムを慎重にプロモートすることを心がけた。PR写真は休養期間中に獲得したセレブレティイメージそのままの物を使用し[注 107]、リリースに伴うツアーはイギーの人気が高く、集客を見込め、その後のプロモート用映像に使用する際にも好都合な大都市を重点的に回る短期間のものに留めた[54]。その他の地域ではテレビ出演を中心としたプロモートに徹し、新曲「リアル・ワイルド・チャイルド (ワイルド・ワン)(英語版)」の宣伝に努めた[注 108]。イギーもこれまでと異なり、レーベルの期待通りの応対を各所で見せ、アルバムやシングルのセールス寄与に気を配った[注 109][10][9][90]
結果的に『ブラー・ブラー・ブラー』は、イギーのアルバムとしては『イディオット』以来のビルボード100位以内にチャートイン(最高位72位)し[91]、イギリスでも『ラスト・フォー・ライフ』以来の50位以内(最高位43位)を記録した[48]


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