イギー・ポップ
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そのパーティにはMC5のメンバーも出席していた[10]
1968年3月、ザ・サイケデリック・ストゥージズは初めてギャラの出るギグに出演した。この時にイギーはステージダイブを披露し、歯を折った[16][18]。同年8月11日、ミシガンのMothersというクラブで、観客の女性を捕まえて犬の性交のように腰を振り、それからステージ上に登って性器を露出した。結局、警察がやってきて彼を逮捕した[21]。1970年8月のニューヨークのクラブUnganoでも、ステージ中に嘔吐したり、性器を露出してアンプの上に寝かせるパフォーマンスを行っている。1979年にはデニス・クーパーのLittle Caesar誌8号のカバーで、ヌード写真が掲載された[22]

イギーは、観客を驚かせて困惑させる過激なステージパフォーマンスについて、後年、ジム・モリソンの影響下にあったと語っている[11]1967年ザ・ドアーズがミシガン大学で行なったギグを見ており[23]、モリソンがステージで披露する悪ふざけや観客に向けた敵意に驚かされ、フロントマンとなった際の参考としたという。ドアーズは2回見てるよ。最初に見たのは人気が出始めの頃だったけど、大きな、大きな、大きな影響を受けたよ。ちょうど大ヒット曲「ハートに火をつけて」を出して出世の階段を駆け上っていくところで、だからこの男、カールした髪をオールバックにして革ジャンを着てドラッグに酔っていたモリソン、にしてみるとステージは狭過ぎたし低かった。全てがふさわしくない感じだった。本当に面白かった。彼のパフォーマンスが大好きだった。俺の一部は「おい、こいつはすごい。奴は本当に客を怒らせてるぜ」と思ってた。「くそったれ、お前ら空っぽ空っぽ空っぽだ」「マスでもかいてろ」と罵倒するモリソンに向かって客が押し寄せてた。だが一方、こうも思った。「彼らがレコードをヒットさせたら、こんな騒ぎとはおさらばだろう。だったら、俺達がバンドでこいつをやらない手はない」ってね。それは天啓だったな。「おい、これならできるぜ!」ってね。で、実際にそうしたのさ[24]

モリソンが人気バンドのフロントマンでありながら極端な振る舞いを見せていたため、イギーはそれを更に上回ることを意識した[注 11]。徐々に過激化していったイギーのステージパフォーマンスは、割れたガラスの上を転がりまわったり、群衆を前にして局部を露出するところまでに至ることになる[11]

バンド活動を続けていく中、デトロイトロックシーンの中心的存在だったMC5と繋がりを持ち[注 12]、様々なギグで共演を続けていくうちに、エレクトラ・レコードでザ・ドアーズのパブリシティを担当していたダニー・フィールズ(英語版)の目に留まり、1968年10月8日、MC5とともにエレクトラ・レコードとレコードリリース契約を締結することになった[15]。その際、バンド名が長い、ということでザ・ストゥージズに改名している[注 13][18]

ダニー・フィールズがアンディ・ウォーホルとの人脈を持っていたこともあって、デビューアルバム『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ(英語版)』のプロデューサーにはヴェルヴェット・アンダーグラウンドを脱退したばかりのジョン・ケイルが起用された。レコーディング中にザ・ストゥージズはウォーホルのファクトリー (アンディ・ウォーホル)(英語版)に出入りできることになり[18]、イギーはニコと知り合うことになった[注 14][16]

1969年5月3日のオハイオ・ウェスリアン大学でのライブでは、ドラムスティックの尖端で自分の胸を切り裂き始め、血塗れのままライブを行った。

同年8月5日、デビュー・アルバム『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ』がリリースされ[注 15]、ビルボード総合チャートで最高位106位とローカルバンドとしてはまずまずのチャートアクションを記録した[25]が、イギー及びスコット・アシュトンの薬物依存とデイヴ・アレクサンダーの過度の飲酒癖によって徐々にバンドは混乱状態に陥っていくことになる[15]

セカンドアルバム『ファン・ハウス(英語版)』制作にあたり、インパクトのある楽器を追加したいというイギーの考えから、イギーの大学の後輩で、カーナル・キッチンというインストゥルメンタルユニットで活動していたサックス奏者のスティーヴ・マッケイをレコーディングに参加させた[26]

ドン・ガルッチ[注 16]がプロデューサーを務め、デビュー前に持っていたインストゥルメンタルバンドとしての側面と、デビュー後に見せたロックンロールバンドとしての側面を融合させたこのアルバムは1970年7月7日にリリースされ、著名な音楽評論家レスター・バングス(英語版)にクリーム (アメリカ合衆国の音楽雑誌) (英語版)誌上で絶賛される[28]が、チャートアクションはデビューアルバムを下回ってしまった[注 17]

1970年6月13日のシンシナティでのライブでは、全身にピーナッツバターを塗るパフォーマンスを行った。

『ファン・ハウス』が商業的に失敗に終わった後、ザ・ストゥージズはツインギター体制とし、新たな展開を模索していたが、メンバーは短期間で入れ替わり[注 18]、リーダーであるイギーが薬物入手のためにエレクトラから得た契約金にメンバーに無断で手をつけ[15]、更にロン・アシュトンを除くメンバー全員も薬物依存だった[注 19]ため、やはり薬物入手のために機材を売り払うなど[16]、コントロールを失っていった。

そんなバンドにエレクトラは見切りをつけ、イギーがメンバー(スコット・アシュトン、ジェームズ・ウィリアムソン)と同居していたマンション[30]に担当者を派遣すると、次回作のために準備していた新曲を確認し、「出来が良くない」と告げて契約を解除した[15]。これにより、ザ・ストゥージズは商業的に行き詰まってしまう。

加えて、イギーが薬物依存症治療のために施設に通い始め[15]、当時の作曲パートナーでもあったジェームズ・ウィリアムソンも肝炎に罹患して療養生活に入る[30]など、メンバーが継続的に揃うことも難しくなったことから、1971年7月9日にザ・ストゥージズは解散を宣言した[31]
イギー&ザ・ストゥージズ: 1972年 - 1974年

ザ・ストゥージズ解散後の1971年9月、ダニー・フィールズからの紹介でイギーはデヴィッド・ボウイとマクシズ・カンサス・シティ(英語版)で会い[32]、彼の所属事務所メインマンに誘われた。イギーは誘いを受けて事務所と契約し、その結果、コロムビアから2枚のアルバムレコーディング契約を手に入れることになった[31]
1972年3月、イギーはデヴィッド・ボウイのマネージャーでありメインマンの社長だったトニー・デフリーズ(英語版)に連れられてロンドンに向かうと、バックバンドを探すように指示された。イギーはまず、ザ・ストゥージズ末期に作曲パートナーを務めていたジェームズ・ウィリアムソンをロンドンに呼び、2人でバックバンドを探し始めた[16]。事務所は当初、ピンク・フェアリーズ(英語版)とのコラボレートを提案したが2人は断り[18]、オーディションで新しいメンバーを探したものの、意に沿う人材が見つからず難航した。ロンドンに向かった当初のイギーは全く新しいバンドを組むつもりではいたものの[16]、最終的にウィリアムソンの提案[30]でロン・アシュトンがベーシストへ転向することを前提に、アシュトン兄弟を呼び寄せることにした。この提案をロン・アシュトンが受け入れたため[注 20]、結果的にザ・ストゥージズが再結成することになるが、「イギーをメインに据えたい」という事務所の意向からバンドは「イギー&ザ・ストゥージズ」と名乗ることになり[30]、実際にこのメンバーで製作されたアルバム『ロー・パワー(英語版)』ではそのバンド名がクレジットされている。


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