イギー・ポップ
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元々、イギーがツアー中に見せる奔放な生活に嫌気が差していたドラムスのクリューガーと、同じく嫌気がさしていたビリー・ラスは解雇を受け入れた[10]
そのため、再びクラールはメンバー補充のためにニューヨークに飛び、ジョン・ケイルとコラボレーションした際に面識を得たセッション・ドラマー、ダグラス・バウンから参加の了解を取り付けた。しかし、ベーシストは見つからず、結局オーディションでマイケル・ペイジを採用した[注 68][10]
この後メンバーは固定され、ツアーは3ヶ月ほど続けられたが、『ソルジャー』のセールスはアリスタの想定する水準、『イディオット』『ラスト・フォー・ライフ』と同程度の水準には達しなかったため[注 69]、マネージャーの庇護もない中、イギーはアリスタの財務担当者のプレッシャーに直接晒されることになった[10]
パーティ

『ソルジャー』のヨーロッパツアー終了後、イギーとクラールはニューヨークに滞在して曲を書きため[9]、次作のレコーディングに臨んだ。バックバンドはツアーメンバーがそのまま務め、プロデューサーは『ソルジャー』の最終ミックスを担当したトム・パヌンツィオが務めた[10]
一通りのレコーディングが完了した後に仕上がりを確認したアリスタの財務担当者、チャールズ・レヴィンソンは「コマーシャルな曲がない」とイギーとクラールにプレッシャーをかけた。今回が契約延長の最後のチャンスと心得ていた2人はシングル用の「コマーシャルな曲」の製作と、スタンダード曲[注 70]のカヴァーを承諾した[10]
チャールズ・レヴィンソンは収録曲のラインナップだけでなく、パヌンツィオのプロデュースワークにも不満を持っていたために他のプロデューサーを探し、トミー・ボイスを呼ぶことに成功した。スタンダード曲カヴァーのために呼ばれた[注 71]ボイスは製作中だった「コマーシャルな曲」、「バン・バン (イギー・ポップの曲)(英語版)」を気に入り、この曲をプロデュースすることにも同意した[9]
レコーディング終了後、イギーは小規模な北米ツアーに出たが、新作リリース前のためアリスタの支援はなく、経費はブッキングエージェントから前借りしていた[注 72]。その後も小規模なツアーを続けていくなかで、ギターとキーボード兼任だったクラールをギター専任とし、新たなキーボード奏者を呼ぶようクラールに求めた。クラールはパティ・スミス・グループのかつての同僚、リチャード・ソール(英語版)を呼び、これに応えた[10]
1981年6月、新作『パーティー (イギー・ポップのアルバム) (英語版)』が発売され、ツアーは改めてパーティ・ツアーと銘打たれてヨーロッパから開始された。しかし、この頃のイギーはアリスタからのプレッシャーとタイトなスケジュールからくるストレスを飲酒と薬物で糊塗しているという悪循環から抜け出せなくなっており、バンドのマネジメントはすべてクラールに任せきりだった[10]
ヨーロッパツアーを終了し、アメリカツアー初回、8月のニューヨーク公演3日目、クラールは、このままでは自身のキャリアが終わると危惧を覚え、ロードマネージャーのヘンリー・マグロガン[注 73]に離脱を伝えると、イギーの前から姿を消した[注 74][10]

イギーはクラールの離脱にショックを受けた[注 75]が、ツアーを中止するわけにはいかなかったため、急遽ギタリストを探したものの、すぐに参加できるプロフェッショナルは見つからず、止むを得ずイギーと仕事をしたがっていた元ブロンディのベーシスト、ゲイリー・ヴァレンタイン (ベーシスト)(英語版)を本職ではないギタリストとして起用した[10]
パーティ・ツアーはその後も続いたが、クラール離脱から1ヶ月も経たないうちに、『パーティ』のチャートアクションが期待したものではないことを理由に[注 76]アリスタから契約の延長はないことがイギーに通告され、混乱のアリスタ時代が終了した[注 77]
アリスタからのプレッシャーとプロモーションと収益確保を兼ねたためにタイトになったツアースケジュールに悩まされ、アルコールと薬物に頼っていたこの時期を、後にイギーは「一番辛かった時期」と総括している。今でこそ俺はソロアーティストとして認められてるけど、それは俺にとっちゃ選んでそうなったわけじゃなく、自然な流れでそうなっただけだったから、まだ完全にその状況に慣れちゃいなくてさ、きちんとしたプロダクションを作り上げるのにも手間取ったし、ツアー中も自分をコントロールするのが大変だった。気分的にも高低の波が大きすぎたね[16]。俺は自分じゃ、反抗的になろうなんて思った事は一度もなかった。ただ、ちゃんとやろう、自分のやり方でやろうって思ってただけさ。自分の音楽が良い音楽だって事もわかってた。ただ一つだけ俺にできなかったのは、業界で責任ある立場にある人間に、俺の物の見方をわかってもらう事だったね。[68]

また、それぞれのアルバムについては『ニュー・ヴァリューズ』は「誇りを持っている。」、『ソルジャー』は「随分と長いこと好きになれなかった。」、『パーティ』は「全作中一番嫌いなアルバム」と評価している[16][注 78][注 79][注 80]
ゾンビー・バードハウス: 1982年
フォロー・ザ・サン・ツアー

イギーはアリスタとの契約が終了するとツアー名からアルバムタイトル『パーティ』を外し、改めてフォロー・ザ・サン・ツアーと銘打ってツアーを続行した。このタイミングに合わせて、デヴィッド・ボウイの常連ギタリスト、カルロス・アロマー(英語版)がゲストとして参加した[注 81]
このツアーのハイライトは1981年11月30日と12月1日にポンティアック・シルバードームで行われたスタジアムライブで、ローリング・ストーンズのサポートアクトとして参加した[注 82][注 83][9]
この時のイギーのステージ衣装は、革ジャンにミニスカートという組み合わせで、ミニスカートの下は下着なしでストッキングを履いており、事実上、局部を露出した状態だった。この服装で観客を罵倒し始めたため、様々なものがステージ目掛けて投げつけられた[73]。ステージが終了し、バンドがバックヤードに戻ると、プロモーターのビル・グレアム(英語版)は意外にも大喜びしていて、片付けたスタッフに作らせた投擲物のリストをイギーに示し、次にメインのローリング・ストーンズが控えている[73]にも関わらず、イギーにステージへ戻ってそのリストを読み上げて「贈り物」のお礼を言おうとけしかけた。イギーはこれに応え、グレアムとともにステージに戻り「以下の贈り物に感謝する。」と述べた後、戸惑う観客たちに向けて雄叫びで合いの手を入れながら、リストに書かれた投擲物を1つ1つを読み上げた[74][注 84][注 85]
それから1週間ほど後に、フォロー・ザ・サン・ツアーは終了し、イギーはニューヨークに戻った。[注 86]
乱痴気騒ぎのようなフォロー・ザ・サン・ツアーの状況をゲストのカルロス・アロマーや、クレム・バークは楽しんでいた[注 87]が、ギタリストのゲイリー・ヴァレンタインはついていけず、ツアー終了後にバンドを離脱した[9]
ゾンビー・バードハウス

ニューヨークに落ち着いたイギーはブロンディの中心人物、クリス・ステイン(英語版)から、彼が設立したインディーレーベル、アニマル・レコーズ[76]からの新作リリースを提案された[注 88]。インディーレーベルにしては十分な前渡金を受け取ったイギーは、ギタリストのロブ・デュプレイに前渡金の一部を渡して作曲パートナーとし、1982年初頭から曲の準備を開始した[10]
レコーディングは、ニューヨークのブランクテープ・スタジオ[78]で行われ、同年4月頃に終了する[注 89]と、イギーは恋人で写真家のエスター・フリードマンとともにジャケット写真撮影のためにハイチに渡った。当初の予定では数週間程度の滞在予定だったが、様々な騒動に巻き込まれて滞在費を使い果たしてしまい、フリードマンの金策が実るまで3ヶ月ほど滞在することになった[注 90][注 91]


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