イギー・ポップ
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完成したマスターテープはニューヨークのレコード・プラント・スタジオに送られてパティ・スミスやトム・ペティなどとの仕事で知られるエンジニア、トム・パヌンツィオ(英語版)の手に最終ミックスが委ねられることになった[10]
ニュー・ヴァリューズ・ツアー・US

アリスタは『ソルジャー』のレコーディング完了時の1979年10月に、アメリカで前作『ニュー・ヴァリューズ』をリリースすることを決めた[9]。これにより、イギーは『ソルジャー』のレコーディング完了後、すぐに前作のプロモーションのために北米ツアーに出るという奇妙な状況に置かれることになった[10]
行方をくらませたスティーヴ・ニューはツアーのリハーサルにも顔を出さなかったため[59]にギタリストが足りず、イギーは元ダムドで、当時は新バンド、タンズ・ダー・ユースでキャリアを模索していたブライアン・ジェームズ(英語版)に参加を打診した。ザ・ストゥージズの大ファンだったジェームズは受け入れ[61]、結果的に有名なブリティッシュ・パンクバンドの元メンバーが2人参加したツアーが実現する[9][注 62][注 63]
ツアーは『ニュー・ヴァリューズ』のアメリカリリース直後、1979年10月の終わり頃から開始されたが、『ソルジャー』リリース日までに完了させる必要があったため、スケジュールが非常にタイトで、終了と共にブライアン・ジェームズはこれ以上の同行を拒否した[注 64][注 65][注 66]。また、レコーディング中にアイヴァン・クラールにバンドマスター兼作曲パートナーとしての役割を取って代わられたマトロックも「同行している意味がない」と判断し、加えて『ソルジャー』の最終ミックスが気に入らなかったこともあり、ツアー終了後に離脱した。イギーのマネージャー、ピーター・デイヴィスもこの頃にイギーの前から姿を消した[10]
ツアーは1ヶ月程度で終了した[54]が、『ニュー・ヴァリューズ』のセールス強化には結びつかず、ビルボード最高位は180位に終わった[62]
ソルジャー・ツアー

様々な混乱[注 67]に見舞われた『ソルジャー』は1980年2月にリリースされた。こちらはアメリカでも同時期に発売されたため、ヨーロッパと北米を中心とした長期のツアーが企画された。
アイヴァン・クラールはニューヨークパンク・シーンの仲間の伝手を辿り、補充メンバーとして元マンプス(英語版)のロブ・デュプレイ(英語版)をギタリストとして、元ジョニー・サンダース&ザ・ハートブレイカーズ(英語版)のビリー・ラスをベーシストとして連れてきた[10]
新メンバーでイギリスツアーを終了し、北米ツアーに移るが、今度はイギーが「今のリズムセクションはバンドの和を乱すからクビにする」と言い出した。元々、イギーがツアー中に見せる奔放な生活に嫌気が差していたドラムスのクリューガーと、同じく嫌気がさしていたビリー・ラスは解雇を受け入れた[10]
そのため、再びクラールはメンバー補充のためにニューヨークに飛び、ジョン・ケイルとコラボレーションした際に面識を得たセッション・ドラマー、ダグラス・バウンから参加の了解を取り付けた。しかし、ベーシストは見つからず、結局オーディションでマイケル・ペイジを採用した[注 68][10]
この後メンバーは固定され、ツアーは3ヶ月ほど続けられたが、『ソルジャー』のセールスはアリスタの想定する水準、『イディオット』『ラスト・フォー・ライフ』と同程度の水準には達しなかったため[注 69]、マネージャーの庇護もない中、イギーはアリスタの財務担当者のプレッシャーに直接晒されることになった[10]
パーティ

『ソルジャー』のヨーロッパツアー終了後、イギーとクラールはニューヨークに滞在して曲を書きため[9]、次作のレコーディングに臨んだ。バックバンドはツアーメンバーがそのまま務め、プロデューサーは『ソルジャー』の最終ミックスを担当したトム・パヌンツィオが務めた[10]
一通りのレコーディングが完了した後に仕上がりを確認したアリスタの財務担当者、チャールズ・レヴィンソンは「コマーシャルな曲がない」とイギーとクラールにプレッシャーをかけた。今回が契約延長の最後のチャンスと心得ていた2人はシングル用の「コマーシャルな曲」の製作と、スタンダード曲[注 70]のカヴァーを承諾した[10]
チャールズ・レヴィンソンは収録曲のラインナップだけでなく、パヌンツィオのプロデュースワークにも不満を持っていたために他のプロデューサーを探し、トミー・ボイスを呼ぶことに成功した。スタンダード曲カヴァーのために呼ばれた[注 71]ボイスは製作中だった「コマーシャルな曲」、「バン・バン (イギー・ポップの曲)(英語版)」を気に入り、この曲をプロデュースすることにも同意した[9]
レコーディング終了後、イギーは小規模な北米ツアーに出たが、新作リリース前のためアリスタの支援はなく、経費はブッキングエージェントから前借りしていた[注 72]。その後も小規模なツアーを続けていくなかで、ギターとキーボード兼任だったクラールをギター専任とし、新たなキーボード奏者を呼ぶようクラールに求めた。クラールはパティ・スミス・グループのかつての同僚、リチャード・ソール(英語版)を呼び、これに応えた[10]
1981年6月、新作『パーティー (イギー・ポップのアルバム) (英語版)』が発売され、ツアーは改めてパーティ・ツアーと銘打たれてヨーロッパから開始された。しかし、この頃のイギーはアリスタからのプレッシャーとタイトなスケジュールからくるストレスを飲酒と薬物で糊塗しているという悪循環から抜け出せなくなっており、バンドのマネジメントはすべてクラールに任せきりだった[10]
ヨーロッパツアーを終了し、アメリカツアー初回、8月のニューヨーク公演3日目、クラールは、このままでは自身のキャリアが終わると危惧を覚え、ロードマネージャーのヘンリー・マグロガン[注 73]に離脱を伝えると、イギーの前から姿を消した[注 74][10]

イギーはクラールの離脱にショックを受けた[注 75]が、ツアーを中止するわけにはいかなかったため、急遽ギタリストを探したものの、すぐに参加できるプロフェッショナルは見つからず、止むを得ずイギーと仕事をしたがっていた元ブロンディのベーシスト、ゲイリー・ヴァレンタイン (ベーシスト)(英語版)を本職ではないギタリストとして起用した[10]
パーティ・ツアーはその後も続いたが、クラール離脱から1ヶ月も経たないうちに、『パーティ』のチャートアクションが期待したものではないことを理由に[注 76]アリスタから契約の延長はないことがイギーに通告され、混乱のアリスタ時代が終了した[注 77]
アリスタからのプレッシャーとプロモーションと収益確保を兼ねたためにタイトになったツアースケジュールに悩まされ、アルコールと薬物に頼っていたこの時期を、後にイギーは「一番辛かった時期」と総括している。今でこそ俺はソロアーティストとして認められてるけど、それは俺にとっちゃ選んでそうなったわけじゃなく、自然な流れでそうなっただけだったから、まだ完全にその状況に慣れちゃいなくてさ、きちんとしたプロダクションを作り上げるのにも手間取ったし、ツアー中も自分をコントロールするのが大変だった。気分的にも高低の波が大きすぎたね[16]。俺は自分じゃ、反抗的になろうなんて思った事は一度もなかった。ただ、ちゃんとやろう、自分のやり方でやろうって思ってただけさ。自分の音楽が良い音楽だって事もわかってた。ただ一つだけ俺にできなかったのは、業界で責任ある立場にある人間に、俺の物の見方をわかってもらう事だったね。[68]

また、それぞれのアルバムについては『ニュー・ヴァリューズ』は「誇りを持っている。」、『ソルジャー』は「随分と長いこと好きになれなかった。」、『パーティ』は「全作中一番嫌いなアルバム」と評価している[16][注 78][注 79][注 80]
ゾンビー・バードハウス: 1982年
フォロー・ザ・サン・ツアー


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