イギー・ポップ
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『キル・シティ』は1974年時点ではそのデモテープに全てのレーベルが価値を認めなかったが、『イディオット』と『ラスト・フォー・ライフ』の商業的成功にあやかる形で1977年11月に発売されると、高評価と好調なセールスを記録した[10]
この評価を見てイギーは新作のプロデューサー兼ギタリストとしてジェームズ・ウィリアムソンを希望した[30]
ピーター・デイヴィスは元々ウィリアムソンのプロデュース能力に懐疑的で[注 47]、ベン・エドモンズもデモテープを無視した人物の1人だったが、2人ともイギー同様にこの高評価を見て考えを変え、ウィリアムソンを招くことに同意した[10]
ソニックス・ランデヴー・バンドをバックバンドにすることに失敗したイギーは、レコーディングの開始までにバンドメンバーを揃える必要があったが、イギーの休養中に短期間アイク&ティナ・ターナーのバックバンドを務めていたスコット・サーストンが、そのバックバンド、アイク&ティナ・ターナー・レヴュー(英語版)からジャッキー・クラークを呼んでくることに成功した。ジャッキー・クラークは本来ギタリストだったがベースも弾けたため、彼をベーシストとした[10]
ギターはウィリアムソンに担当させる予定だったが、長らくギターを弾いていなかったウィリアムソンは乗り気でなく、サーストンがほぼ全編にわたって担当することになった[注 48]。ドラマーはイギーと西ベルリンで知り合った元タンジェリン・ドリームのクラウス・クリューガーを起用した[10]
レコーディング場所は、イギー自身はヨーロッパを希望したが、予算の関係からロサンゼルスのパラマウント・スタジオで行われることになった。マネージャーのピーター・デイヴィスはイギーのためにコカインを用意するような人物だったため、イギーは再度、薬物に依存する生活を送ることになったが、サーストンとウィリアムソンが仕切ったレコーディングは順調に進み、新作『ニュー・ヴァリューズ』は1979年4月にリリースされた[10]
『ニュー・ヴァリューズ』は音楽メディアに高く評価されて[58]ラジオのオンエアも好調で[9]、順調な状況のままイギーはヨーロッパツアーを開始する。
このツアーにウィリアムソンは同行せず、サーストンはツアーでは基本的にキーボード専任だったため、イギーはベーシストとしてレコーディングに参加したジャッキー・クラークを本来のポジションであるギタリストに戻し[10]、新たに元セックス・ピストルズのベーシスト、グレン・マトロックに参加を打診した。自身のバンド、リッチ・キッズが活動を停止したばかりのマトロックは要請を受け入れてツアーに参加した[注 49]

ソルジャー

評価は高かった『ニュー・ヴァリューズ』だが、チャートアクションは『イディオット』『ラスト・フォー・ライフ』といった前2作を下回ってしまう[注 50][注 51]
チャートアクションを見たアリスタは、ツアー中のイギーに次作の準備をするように要請すると共にウェールズのロックフィールド・スタジオを確保した。そのため、イギーは1979年6月のツアー終了後、休むことなくレコーディングに取り掛かることになった[10][注 52]
ツアー中、イギーは優れたソングライターでもあったマトロック[注 53]を新たな作曲パートナーに据えることを構想し、作曲に参加させることにした[59]。この動きを見たそれまでの作曲パートナー兼バンドマスターのスコット・サーストンは自身の解雇を予想していたが、実際に次作のレコーディングには参加させないということをイギーから告げられると、ツアー終了後にジャッキー・クラークを連れてバックバンドから離脱してしまった[10]
ギタリストとキーボードを一度に失ったイギーは、また新たにバンドメンバーを集める必要があったが、その前にプロデューサーとして再びジェームズ・ウィリアムソンを確保した。前回と異なり、国外に出向かねばならない上に旧友のサーストンもおらず、そのうえメンバーも確定してない、という状況下のレコーディングに乗り気ではなかったウィリアムソンだが、当時、大学に在学中[注 54]で学費の捻出に迫られていたため、同意する[10]
レコーディング前のリハーサル時点ではウィリアムソンがギターを担当していたが、「自分の考えるレベルに達していない」とウィリアムソン自身が申し出たため、結局、マトロックがリッチ・キッズの同僚だったスティーヴ・ニュー(英語版)を呼び出して解決した。キーボードは元XTCで、当時は特に音楽活動をしていなかった[注 55]バリー・アンドリュース(英語版)を起用した[10]
しかし、成り行き上バンドマスターを任されたマトロックはバンドマネジメントに慣れていなかったことからバンドを仕切ることに失敗し、昼間からメンバーが飲酒するような状況に陥った。イギー自身は作詞に追われてバンドメンバーの面倒を見る暇がなかったため、ウィリアムソンが現場を仕切ることになったものの、規律の乱れたメンバーに対してオーヴァーダビング用として延々と同じパートのリプレイを求めたうえに、メンバーから出されたレコーディングのアイデアも、まとまっていない段階であれば時間もないことから容赦なく却下するという態度を見せたため、スタジオの雰囲気は悪かった[10]
雰囲気に加え、予算と完成期日の超過も懸念され始めたため[注 56]、この状況を見たアリスタのスタッフは、状況打開のためにデヴィッド・ボウイとパティ・スミス・グループのアイヴァン・クラールを呼び出した[注 57][10]
ボウイは「プレイ・イット・セーフ」のコーラス参加という名目で一晩だけの参加に合意した[注 58]が、雰囲気を改善するために呼ばれたという自身の役割を分かっており、卑猥な冗談とマーガレット王妃に関する不敬な冗談をそれぞれ語って場を盛り上げた。その雰囲気に乗ったイギーはその冗談を応用した歌詞を即興で作り上げて「プレイ・イット・セーフ」のレコーディングを行った。その内容ではとてもラジオでオンエアできず、発売も難しくなると考えたウィリアムソンが注意したところ、イギーは反発し「お前はこの場所に相応しくない」と糾弾してスタジオは混乱した。更に、ボウイが自身の恋人に手を出そうとしたと勘違いしたスティーヴ・ニューがボウイを殴ってしまうという事件も起き[59]、その日のレコーディングは混乱のまま終了した[注 59]
翌日、ボウイは去り、ウィリアムソンもレコーディング終了を待たずにイギーに解雇され、帰国してしまった[30]。また、スティーヴ・ニューもボウイを殴ったことに対するイギーからの報復を恐れて姿をくらませた[59][10]
この騒動を見て、アリスタからA&R部門の統括者ターキン・ゴッチと財務担当者のビーター・レヴィンソンが事態収拾のために駆けつけた[注 60]。結果、ロックフィールド・スタジオのハウスエンジニア、パット・モラン[注 61]をプロデューサーに据え、アイヴァン・クラール指揮の下で足りない部分を取り急ぎレコーディングし、マスターテープを完成させた。完成したマスターテープはニューヨークのレコード・プラント・スタジオに送られてパティ・スミスやトム・ペティなどとの仕事で知られるエンジニア、トム・パヌンツィオ(英語版)の手に最終ミックスが委ねられることになった[10]
ニュー・ヴァリューズ・ツアー・US

アリスタは『ソルジャー』のレコーディング完了時の1979年10月に、アメリカで前作『ニュー・ヴァリューズ』をリリースすることを決めた[9]。これにより、イギーは『ソルジャー』のレコーディング完了後、すぐに前作のプロモーションのために北米ツアーに出るという奇妙な状況に置かれることになった[10]
行方をくらませたスティーヴ・ニューはツアーのリハーサルにも顔を出さなかったため[59]にギタリストが足りず、イギーは元ダムドで、当時は新バンド、タンズ・ダー・ユースでキャリアを模索していたブライアン・ジェームズ(英語版)に参加を打診した。


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