イギー・ポップ
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この扱いに対してRCAレコードに不信感を持ったイギーは、『ラスト・フォー・ライフ』のツアー[注 44]を終えると契約を消化するためにライブアルバム『TV Eye:1977 ライヴ』を1978年4月にリリースし、そのままRCAレコードを離れ、ボウイの下からも立ち去った[10][注 45]
ソニックス・ランデヴー・バンド: 1978年

『TV Eye:1977 ライヴ』リリース前の1978年初頭、イギーはスコット・サーストンを除くそれまでのバンドメンバーを解雇した。これはソニックス・ランデヴー・バンド(英語版)をバックバンドに据えるための措置だった。

1977年の『ラスト・フォー・ライフ』ツアー中、デトロイトに里帰りしたイギーは旧友のスコット・アシュトンが参加していたバンド、ソニックス・ランデヴー・バンドとジャムセッションを行っていた。このセッションに満足したイギーは、デトロイト・ロックシーンの中心的な存在(元MC5のフレッド・“ソニック”・スミス(英語版)、元レイショナルズ(英語版)のスコット・モーガン(英語版)、元ジ・アップ(英語版)のゲイリー・ラスムッセン)が集まっていたこのバンドで、デヴィッド・ボウイとコラボレーションした2作とは毛色の異なるギターロックを志向した演奏をしたいと考え、彼らへ『TV Eye ライヴ』ツアーへの参加を打診した。バンドメンバーのうち、スコット・モーガンは参加を断ったが、他のメンバーは承諾したため、サウスロンドンのバタシーにあるスタジオでリハーサルを開始した。しかし、最終的にアルバム制作まで考えていたイギーに対し、バンドの中心的メンバーのフレッド・スミスが「メンバー全員が参加して一から作曲をするのでなければ意味がない」と主張して、単なるバックバンドとして扱われるレコーディングには難色を示した。
『TV Eye ライヴ』ツアー自体は1978年5月から無事に開始されたが、この溝は最後まで埋まらず、加えてフレッド・スミスがパティ・スミスとの交際を開始したため、長期に渡ってアメリカを離れることに消極的となり、更にバンド初のシングル「シティ・スラング」がアメリカで発売されることもあって、イギーとバンドはスタジオレコーディングをすることなく、1ヶ月程度で袂を分かった。[10][9][注 46]
アリスタ時代: 1979年 - 1981年

ソニックス・ランデヴー・バンドとのコラボレーション終了後、イギーはまだ自宅のあった西ベルリンに戻って休養と新曲の製作に充てた。その間、新たにマネージャーとなったピーター・デイヴィスがアリスタと交渉し、3枚のアルバム製作契約をまとめた。A&R部門の統括者ベン・エドモンズがイギーを評価していたために実現した契約だったが、当時のアリスタ社長、クライヴ・デイヴィスはコロムビア時代にストゥージズを庇護したにも関わらず、その期待に応えてもらえなかったことを覚えており、イギーの作品のアメリカにおける商業価値に懐疑的で、アルバムのアメリカ発売を確約しなかった[10][9]
ニュー・ヴァリューズイギリス・カーディフ・学生会館 1979年5月9日[57]

『キル・シティ』は1974年時点ではそのデモテープに全てのレーベルが価値を認めなかったが、『イディオット』と『ラスト・フォー・ライフ』の商業的成功にあやかる形で1977年11月に発売されると、高評価と好調なセールスを記録した[10]
この評価を見てイギーは新作のプロデューサー兼ギタリストとしてジェームズ・ウィリアムソンを希望した[30]
ピーター・デイヴィスは元々ウィリアムソンのプロデュース能力に懐疑的で[注 47]、ベン・エドモンズもデモテープを無視した人物の1人だったが、2人ともイギー同様にこの高評価を見て考えを変え、ウィリアムソンを招くことに同意した[10]
ソニックス・ランデヴー・バンドをバックバンドにすることに失敗したイギーは、レコーディングの開始までにバンドメンバーを揃える必要があったが、イギーの休養中に短期間アイク&ティナ・ターナーのバックバンドを務めていたスコット・サーストンが、そのバックバンド、アイク&ティナ・ターナー・レヴュー(英語版)からジャッキー・クラークを呼んでくることに成功した。ジャッキー・クラークは本来ギタリストだったがベースも弾けたため、彼をベーシストとした[10]
ギターはウィリアムソンに担当させる予定だったが、長らくギターを弾いていなかったウィリアムソンは乗り気でなく、サーストンがほぼ全編にわたって担当することになった[注 48]。ドラマーはイギーと西ベルリンで知り合った元タンジェリン・ドリームのクラウス・クリューガーを起用した[10]
レコーディング場所は、イギー自身はヨーロッパを希望したが、予算の関係からロサンゼルスのパラマウント・スタジオで行われることになった。マネージャーのピーター・デイヴィスはイギーのためにコカインを用意するような人物だったため、イギーは再度、薬物に依存する生活を送ることになったが、サーストンとウィリアムソンが仕切ったレコーディングは順調に進み、新作『ニュー・ヴァリューズ』は1979年4月にリリースされた[10]
『ニュー・ヴァリューズ』は音楽メディアに高く評価されて[58]ラジオのオンエアも好調で[9]、順調な状況のままイギーはヨーロッパツアーを開始する。
このツアーにウィリアムソンは同行せず、サーストンはツアーでは基本的にキーボード専任だったため、イギーはベーシストとしてレコーディングに参加したジャッキー・クラークを本来のポジションであるギタリストに戻し[10]、新たに元セックス・ピストルズのベーシスト、グレン・マトロックに参加を打診した。自身のバンド、リッチ・キッズが活動を停止したばかりのマトロックは要請を受け入れてツアーに参加した[注 49]

ソルジャー

評価は高かった『ニュー・ヴァリューズ』だが、チャートアクションは『イディオット』『ラスト・フォー・ライフ』といった前2作を下回ってしまう[注 50][注 51]
チャートアクションを見たアリスタは、ツアー中のイギーに次作の準備をするように要請すると共にウェールズのロックフィールド・スタジオを確保した。そのため、イギーは1979年6月のツアー終了後、休むことなくレコーディングに取り掛かることになった[10][注 52]
ツアー中、イギーは優れたソングライターでもあったマトロック[注 53]を新たな作曲パートナーに据えることを構想し、作曲に参加させることにした[59]。この動きを見たそれまでの作曲パートナー兼バンドマスターのスコット・サーストンは自身の解雇を予想していたが、実際に次作のレコーディングには参加させないということをイギーから告げられると、ツアー終了後にジャッキー・クラークを連れてバックバンドから離脱してしまった[10]
ギタリストとキーボードを一度に失ったイギーは、また新たにバンドメンバーを集める必要があったが、その前にプロデューサーとして再びジェームズ・ウィリアムソンを確保した。前回と異なり、国外に出向かねばならない上に旧友のサーストンもおらず、そのうえメンバーも確定してない、という状況下のレコーディングに乗り気ではなかったウィリアムソンだが、当時、大学に在学中[注 54]で学費の捻出に迫られていたため、同意する[10]
レコーディング前のリハーサル時点ではウィリアムソンがギターを担当していたが、「自分の考えるレベルに達していない」とウィリアムソン自身が申し出たため、結局、マトロックがリッチ・キッズの同僚だったスティーヴ・ニュー(英語版)を呼び出して解決した。キーボードは元XTCで、当時は特に音楽活動をしていなかった[注 55]バリー・アンドリュース(英語版)を起用した[10]
しかし、成り行き上バンドマスターを任されたマトロックはバンドマネジメントに慣れていなかったことからバンドを仕切ることに失敗し、昼間からメンバーが飲酒するような状況に陥った。イギー自身は作詞に追われてバンドメンバーの面倒を見る暇がなかったため、ウィリアムソンが現場を仕切ることになったものの、規律の乱れたメンバーに対してオーヴァーダビング用として延々と同じパートのリプレイを求めたうえに、メンバーから出されたレコーディングのアイデアも、まとまっていない段階であれば時間もないことから容赦なく却下するという態度を見せたため、スタジオの雰囲気は悪かった[10]
雰囲気に加え、予算と完成期日の超過も懸念され始めたため[注 56]、この状況を見たアリスタのスタッフは、状況打開のためにデヴィッド・ボウイとパティ・スミス・グループのアイヴァン・クラールを呼び出した[注 57][10]


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