イギー・ポップ
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加えて薬物依存がコントロールできない自身に危機感を抱き、自ら治療施設(UCLA神経精神医学研究所(英語版))に入った[10]。そんな中でウィリアムソンがイギーと自身の音楽キャリア継続のため、ザ・ストゥージズ末期に出来上がっていた楽曲を含む新アルバムの制作を構想し、自宅のカセットレコーダーに曲を録音し始めた。これは後にデモテープ制作に発展し、イギーも治療施設から外出許可が下りた際はレコーディングに参加した。制作されたデモテープにはどのレーベルも興味を示さず[43]、この時点ではリリースすることができなかったが、後に『キル・シティ』と名付けられ、1977年に発売される[10]

この頃、しばらく疎遠になっていたイギーとボウイの親交が復活し[16][注 32]、『ステイション・トゥ・ステイション』のレコーディング現場に顔を出すなど、改めて交流が始まった[45]。ボウイは治療施設への訪問やコラボレーションの試行など、ロサンゼルスで散発的にイギーの面倒を見ていたが、やがて自身のツアー(アイソラー・ツアー)にイギーを同行させることを決めた[10]。イギーは後に、このツアーに同行することでプロフェッショナルなミュージシャンとはどのように周囲と協業していくものなのかを学んだと語っている[16]

1976年6月、ツアーが終了すると、イギーとボウイはフランスポントワーズにあるエルヴィル城に滞在してボウイプロデュースの下、本格的なコラボレーションを開始する[注 33]。このスタジオでのレコーディングにはドラムにミシェル・サンタンゲリ(フランス語版)、ベースに元マグマのローラン・ティボー(フランス語版)が参加しているが、ボウイが演奏したバックトラックが多く採用されている。その後、ボウイとイギーは西ベルリンに移ってマンションで共同生活を始め、薬物依存の治療を受けつつ、コラボレーションを継続した[10]

イギーは当時ボウイが所属していたレコード会社RCAレコードと3枚のレコードリリース契約を結び、1977年3月、コラボレーションの成果として初のソロアルバム『イディオット』をリリースした[10]。このアルバムは商業的に成功し[注 34]、その後に行なった短期間のソロツアー[注 35]も成功したことでまとまった収入を得たイギーは、西ベルリンでマンションを借りて恋人のエスター・フリードマン[注 36]との同棲を開始し、ボウイとの共同生活を終了した[16][注 37][注 38]

1977年8月、再びボウイプロデュースの下で[注 39]、『キル・シティ』にも参加していたセイルズ兄弟(トニー・セイルズ(英語版)とハント・セイルズ(英語版))をバックバンドに採用した[注 40][注 41]ラスト・フォー・ライフ』を発表する。このアルバムはイギリスでは『イディオット』を上回るチャートアクションを見せたが[48][注 43]、アメリカでは発売のタイミングがエルヴィス・プレスリーの死去と重なっため、エルヴィスのバックカタログを大量に保有するRCAレコードはほとんどが廃盤になっていた旧譜再発に注力することになり、『ラスト・フォー・ライフ』のプロモーションには労力を割かなくなったため、商業的に失敗した[53]。この扱いに対してRCAレコードに不信感を持ったイギーは、『ラスト・フォー・ライフ』のツアー[注 44]を終えると契約を消化するためにライブアルバム『TV Eye:1977 ライヴ』を1978年4月にリリースし、そのままRCAレコードを離れ、ボウイの下からも立ち去った[10][注 45]
ソニックス・ランデヴー・バンド: 1978年

『TV Eye:1977 ライヴ』リリース前の1978年初頭、イギーはスコット・サーストンを除くそれまでのバンドメンバーを解雇した。これはソニックス・ランデヴー・バンド(英語版)をバックバンドに据えるための措置だった。

1977年の『ラスト・フォー・ライフ』ツアー中、デトロイトに里帰りしたイギーは旧友のスコット・アシュトンが参加していたバンド、ソニックス・ランデヴー・バンドとジャムセッションを行っていた。このセッションに満足したイギーは、デトロイト・ロックシーンの中心的な存在(元MC5のフレッド・“ソニック”・スミス(英語版)、元レイショナルズ(英語版)のスコット・モーガン(英語版)、元ジ・アップ(英語版)のゲイリー・ラスムッセン)が集まっていたこのバンドで、デヴィッド・ボウイとコラボレーションした2作とは毛色の異なるギターロックを志向した演奏をしたいと考え、彼らへ『TV Eye ライヴ』ツアーへの参加を打診した。バンドメンバーのうち、スコット・モーガンは参加を断ったが、他のメンバーは承諾したため、サウスロンドンのバタシーにあるスタジオでリハーサルを開始した。しかし、最終的にアルバム制作まで考えていたイギーに対し、バンドの中心的メンバーのフレッド・スミスが「メンバー全員が参加して一から作曲をするのでなければ意味がない」と主張して、単なるバックバンドとして扱われるレコーディングには難色を示した。
『TV Eye ライヴ』ツアー自体は1978年5月から無事に開始されたが、この溝は最後まで埋まらず、加えてフレッド・スミスがパティ・スミスとの交際を開始したため、長期に渡ってアメリカを離れることに消極的となり、更にバンド初のシングル「シティ・スラング」がアメリカで発売されることもあって、イギーとバンドはスタジオレコーディングをすることなく、1ヶ月程度で袂を分かった。[10][9][注 46]
アリスタ時代: 1979年 - 1981年

ソニックス・ランデヴー・バンドとのコラボレーション終了後、イギーはまだ自宅のあった西ベルリンに戻って休養と新曲の製作に充てた。その間、新たにマネージャーとなったピーター・デイヴィスがアリスタと交渉し、3枚のアルバム製作契約をまとめた。A&R部門の統括者ベン・エドモンズがイギーを評価していたために実現した契約だったが、当時のアリスタ社長、クライヴ・デイヴィスはコロムビア時代にストゥージズを庇護したにも関わらず、その期待に応えてもらえなかったことを覚えており、イギーの作品のアメリカにおける商業価値に懐疑的で、アルバムのアメリカ発売を確約しなかった[10][9]
ニュー・ヴァリューズイギリス・カーディフ・学生会館 1979年5月9日[57]

『キル・シティ』は1974年時点ではそのデモテープに全てのレーベルが価値を認めなかったが、『イディオット』と『ラスト・フォー・ライフ』の商業的成功にあやかる形で1977年11月に発売されると、高評価と好調なセールスを記録した[10]
この評価を見てイギーは新作のプロデューサー兼ギタリストとしてジェームズ・ウィリアムソンを希望した[30]
ピーター・デイヴィスは元々ウィリアムソンのプロデュース能力に懐疑的で[注 47]、ベン・エドモンズもデモテープを無視した人物の1人だったが、2人ともイギー同様にこの高評価を見て考えを変え、ウィリアムソンを招くことに同意した[10]
ソニックス・ランデヴー・バンドをバックバンドにすることに失敗したイギーは、レコーディングの開始までにバンドメンバーを揃える必要があったが、イギーの休養中に短期間アイク&ティナ・ターナーのバックバンドを務めていたスコット・サーストンが、そのバックバンド、アイク&ティナ・ターナー・レヴュー(英語版)からジャッキー・クラークを呼んでくることに成功した。ジャッキー・クラークは本来ギタリストだったがベースも弾けたため、彼をベーシストとした[10]
ギターはウィリアムソンに担当させる予定だったが、長らくギターを弾いていなかったウィリアムソンは乗り気でなく、サーストンがほぼ全編にわたって担当することになった[注 48]。ドラマーはイギーと西ベルリンで知り合った元タンジェリン・ドリームのクラウス・クリューガーを起用した[10]


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