ジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニア(James Newell Osterberg Jr.、1947年4月21日 - )は、ステージネーム「イギー・ポップ」(Iggy Pop)として知られるアメリカ合衆国出身のロックミュージシャン、ボーカリスト、作曲家、音楽プロデューサー、俳優。過激なステージパフォーマンスで知られた同国のロックバンド「ザ・ストゥージズ」のメンバー。ソロミュージシャンとしても知られ、多くの作品を残している。
ザ・ストゥージズ時代の業績により「ゴッドファーザー・オブ・パンク」とも呼ばれ、後世に大きな影響を与えていると同時に、本人も後輩のミュージシャンたちと積極的に交流し、ガレージロック、パンク・ロック、ハードロック、アート・ロック、ニュー・ウェイヴ、ジャズ、ブルースなど、数々のスタイルを取り入れている。
ザ・ストゥージズ時代の「アイ・ワナ・ビー・ユア・ドッグ(英語版)」「サーチ・アンド・デストロイ(英語版)」、ソロミュージシャンとしては「ラスト・フォー・ライフ (イギー・ポップの曲)(英語版)」「ザ・パッセンジャー (イギー・ポップの曲)(英語版)」などが代表曲として知られており、特にザ・ストゥージズ時代の代表曲は様々なミュージシャンにカバーされている[2]。
2010年、ザ・ストゥージズ名義で『ロックの殿堂』入り[3]。
2017年にフランス芸術文化勲章の最高位『コマンドゥール』を受章[4]。
ローリング・ストーン誌選出「歴史上最も偉大な100人のシンガー」第75位[5]。
Q誌選出「歴史上最も偉大な100人のシンガー」第63位[6]。
2020年、第62回グラミー賞 特別功労賞 生涯業績賞を受賞。[7]
生い立ちハイスクール時代のイギー、1965年頃
ジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・ジュニアはミシガン州マスキーゴンで生まれた。母親はノルウェー系とデンマーク系の血を引いたルーエラ(ニー・クリステンセン; 1917?1996)[8][9]、父親はドイツ系、イギリス系、アイルランド系の血を引いたジェームズ・ニューエル・オスターバーグ・シニア(1921?2007)[8][9][注 1]。
父親はミシガン州ディアボーンのフォードソン・ハイスクール(英語版)で英語の教師と野球のコーチをしていた[10]が、昇給を求めてミシガン州イプシランティのイプシランティ・ハイスクール(英語版)に転職し[10]、住居も同地のトレーラーパーク(英語版)に定めると息子をそこで育てた[11][注 2]。母親はNASAからアポロ計画で使用する月面設置用の計測機器(ALSEP(英語版))の納入やLRV (月面車)の開発を請け負っていたベンディクス (アメリカ合衆国の企業)(英語版)社に勤務していた[10]。
2007年のローリングストーン誌のインタビューで、イギーは彼の両親との関係と彼の音楽への影響について以下のように語った。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}中学校はアナーバーにあってそこに通った。フォード・モーター・カンパニーの社長の息子と一緒に学校に通い始めたんだが、こいつは金持ちで差別的な奴だった。だが俺にはそんな連中に負けない財産があったんだ。両親は俺に莫大な投資をしてくれた。俺はいつも彼らに助けてもらってたよ。両親は俺が興味を持ったものをさらに深く知るための手助けを惜しまなかったんだ。最高レベルの援助はトレーラーの主寝室を俺に明け渡してくれた事だな[12]。
ミュージシャンとして
初期の音楽活動: 1960年 - 1967年ザ・プライム・ムーヴァーズ(後方のドラムスがイギー)
オスターバーグはミシガン州アナーバーの高校在学時にドラマーとして音楽キャリアを開始した。いくつかのバンドでプレイしたが、そのうちのひとつ、ジ・イグアナズ(英語版)ではボ・ディドリーの「モナ (ボ・ディドリーの曲)(英語版)」をカヴァーしたシングルをリリースしている[10][注 3][注 4]。
1965年、ミシガン大学に進学したが翌年には退学し、レコードショップ「Discount Records」に勤務しつつ[注 5]ブールスバンド、ザ・プライム・ムーヴァーズ(英語版)に加入して、初めてステージネームを名乗った[15]。
このザ・プライム・ムーヴァーズ在籍中にポール・バターフィールド・ブルース・バンドと偶然出会い、その際に憧れていた元メンバーのサム・レイ(英語版)の連絡先をバターフィールドから教えてもらったため、イギーはシカゴにあるレイの自宅に向かった[15]。
訪問時にレイは不在だったが彼の妻に温かく迎えられ、ジャズやブルースを扱うレコード屋の店長を紹介された[16][注 6]。