モリソンが人気バンドのフロントマンでありながら極端な振る舞いを見せていたため、イギーはそれを更に上回ることを意識した[注 11]。徐々に過激化していったイギーのステージパフォーマンスは、割れたガラスの上を転がりまわったり、群衆を前にして局部を露出するところまでに至ることになる[11]。
バンド活動を続けていく中、デトロイトロックシーンの中心的存在だったMC5と繋がりを持ち[注 12]、様々なギグで共演を続けていくうちに、エレクトラ・レコードでザ・ドアーズのパブリシティを担当していたダニー・フィールズ(英語版)の目に留まり、1968年10月8日、MC5とともにエレクトラ・レコードとレコードリリース契約を締結することになった[15]。その際、バンド名が長い、ということでザ・ストゥージズに改名している[注 13][18]。
ダニー・フィールズがアンディ・ウォーホルとの人脈を持っていたこともあって、デビューアルバム『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ(英語版)』のプロデューサーにはヴェルヴェット・アンダーグラウンドを脱退したばかりのジョン・ケイルが起用された。レコーディング中にザ・ストゥージズはウォーホルのファクトリー (アンディ・ウォーホル)(英語版)に出入りできることになり[18]、イギーはニコと知り合うことになった[注 14][16]。
1969年5月3日のオハイオ・ウェスリアン大学でのライブでは、ドラムスティックの尖端で自分の胸を切り裂き始め、血塗れのままライブを行った。
同年8月5日、デビュー・アルバム『イギー・ポップ・アンド・ストゥージズ』がリリースされ[注 15]、ビルボード総合チャートで最高位106位とローカルバンドとしてはまずまずのチャートアクションを記録した[25]が、イギー及びスコット・アシュトンの薬物依存とデイヴ・アレクサンダーの過度の飲酒癖によって徐々にバンドは混乱状態に陥っていくことになる[15]。
セカンドアルバム『ファン・ハウス(英語版)』制作にあたり、インパクトのある楽器を追加したいというイギーの考えから、イギーの大学の後輩で、カーナル・キッチンというインストゥルメンタルユニットで活動していたサックス奏者のスティーヴ・マッケイをレコーディングに参加させた[26]。
ドン・ガルッチ[注 16]がプロデューサーを務め、デビュー前に持っていたインストゥルメンタルバンドとしての側面と、デビュー後に見せたロックンロールバンドとしての側面を融合させたこのアルバムは1970年7月7日にリリースされ、著名な音楽評論家レスター・バングス(英語版)にクリーム (アメリカ合衆国の音楽雑誌) (英語版)誌上で絶賛される[28]が、チャートアクションはデビューアルバムを下回ってしまった[注 17]。
1970年6月13日のシンシナティでのライブでは、全身にピーナッツバターを塗るパフォーマンスを行った。
『ファン・ハウス』が商業的に失敗に終わった後、ザ・ストゥージズはツインギター体制とし、新たな展開を模索していたが、メンバーは短期間で入れ替わり[注 18]、リーダーであるイギーが薬物入手のためにエレクトラから得た契約金にメンバーに無断で手をつけ[15]、更にロン・アシュトンを除くメンバー全員も薬物依存だった[注 19]ため、やはり薬物入手のために機材を売り払うなど[16]、コントロールを失っていった。
そんなバンドにエレクトラは見切りをつけ、イギーがメンバー(スコット・アシュトン、ジェームズ・ウィリアムソン)と同居していたマンション[30]に担当者を派遣すると、次回作のために準備していた新曲を確認し、「出来が良くない」と告げて契約を解除した[15]。これにより、ザ・ストゥージズは商業的に行き詰まってしまう。
加えて、イギーが薬物依存症治療のために施設に通い始め[15]、当時の作曲パートナーでもあったジェームズ・ウィリアムソンも肝炎に罹患して療養生活に入る[30]など、メンバーが継続的に揃うことも難しくなったことから、1971年7月9日にザ・ストゥージズは解散を宣言した[31]。 ザ・ストゥージズ解散後の1971年9月、ダニー・フィールズからの紹介でイギーはデヴィッド・ボウイとマクシズ・カンサス・シティ
イギー&ザ・ストゥージズ: 1972年 - 1974年
1972年3月、イギーはデヴィッド・ボウイのマネージャーでありメインマンの社長だったトニー・デフリーズ(英語版)に連れられてロンドンに向かうと、バックバンドを探すように指示された。イギーはまず、ザ・ストゥージズ末期に作曲パートナーを務めていたジェームズ・ウィリアムソンをロンドンに呼び、2人でバックバンドを探し始めた[16]。事務所は当初、ピンク・フェアリーズ(英語版)とのコラボレートを提案したが2人は断り[18]、オーディションで新しいメンバーを探したものの、意に沿う人材が見つからず難航した。ロンドンに向かった当初のイギーは全く新しいバンドを組むつもりではいたものの[16]、最終的にウィリアムソンの提案[30]でロン・アシュトンがベーシストへ転向することを前提に、アシュトン兄弟を呼び寄せることにした。この提案をロン・アシュトンが受け入れたため[注 20]、結果的にザ・ストゥージズが再結成することになるが、「イギーをメインに据えたい」という事務所の意向からバンドは「イギー&ザ・ストゥージズ」と名乗ることになり[30]、実際にこのメンバーで製作されたアルバム『ロー・パワー(英語版)』ではそのバンド名がクレジットされている。
1972年7月15日、再始動したイギー&ザ・ストゥージズはロンドンのキングスクロス地区(英語版)にあるキングスクロス・シネマでお披露目ギグを行い、これを成功させた[注 21]。ここで披露した曲はザ・ストゥージズ末期に書かれたものが中心だったが、事務所がこれを気に入らず、新たな曲を書くように要求して他の仕事を入れなかったため、バンドは2ヶ月ほど作曲とリハーサルに明け暮れることになった[10]。1972年9月10日に『ロー・パワー』のレコーディングが始まったが、予定されていたデヴィッド・ボウイのプロデュースをイギーが断った[注 22]ことに加え、ボウイ自身も初の大規模なワールドツアーの最中で事務所もその対応に忙殺されており、レコーディングスタジオにはスタジオエンジニアがいた程度で事務所の関係者は同席しておらず、事実上の放置状態で制作が進められることになった[16]。
十分にリハーサルされていたこともあってレコーディングは1ヶ月程度で終了したが、事務所は楽曲が気に入らないことに加えてミックスが稚拙なものだったことを問題視し、ボウイにリミックスを依頼するように指示するとともにメンバー全員をロサンゼルスに移動させた[9]。