イギー・ポップ
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^ 旧邦題: 「欲情のロックンロール」
^ イギリスではその後も1996年の映画「トレインスポッティング」のオープニング曲としてアルバムタイトル曲[注 42]がノーカットで使用されたことが話題となってリバイバルヒットしている。また、同アルバムの収録曲「ザ・パッセンジャー (イギー・ポップの曲)(英語版)」も1998年にトヨタ・アベンシスのイギリスでのCMに採用された[55]ことがきっかけとなりヒットした[48]
^ イギー&ザ・ストゥージズ末期のメンバーだったスコット・サーストンがキーボードとして参加した[54]
^ この時期のボウイとのコラボレーションとしては、プロデュース作の2枚の他に、『ロウ』へのイギーのコーラス参加がある[56]
^ スコット・サーストンは「タイミングが悪かった。タイミングが合えばレコーディングまで実行できたと思うが、そのような流れにできなかった。」と後に語っている。[10]
^ ウィリアムソンによれば『キル・シティ』製作中にウィリアムソンがイギーへの連絡を希望しても繋ごうとしなかったという[10]
^ ウィリアムソンは「ドント・レット・ミー・ダウン」と「エンドレス・シー」の2曲でギターを弾いている[29]
^ イギーとリッチキッズのエージェントが同一人物(ジョン・ギディングス)で、イギーはその人物からマトロックを推薦された[59]
^ イギリスのオフィシャルチャーツで最高位60位[48]
^ アメリカではクライヴ・デイヴィスの意向もあってこの時点ではリリースされず、その時期も決めかねていた[10]
^ レコーディング前にイギーはベン・エドモンズからA&R部門の統括を引き継いだターキン・ゴッチ(英語版)から「今の最新だったらニュー・ウェイヴ調」と提案されている[9]
^勝手にしやがれ!!』の収録曲は半分近くがマトロックによって作曲された。詳しくは同アルバムの項目を参照。
^ この頃のウィリアムソンは音楽業界でキャリアを積むことを諦め、公立ポモナ大学でコンピューターエンジニアリングの勉強をしていた。詳しくはジェームズ・ウィリアムソンの項を参照。
^ 一時期、ロンドン動物園でアルバイトをしていた[10]
^ ウィリアムソンが48トラック録音に拘ったことも一因だという[10][9]。この件についてウィリアムソンは後に「レコード会社からイギーを最新(ニュー・ウェイヴ)にしてくれと提案されていたので、最新の機材に拘った。最新機材を操作するのは楽しかった。」と語っている[29]。イギーはウィリアムソンのこの拘りが不満で「お前はフィル・スペクターか?これは俺のアルバムだ。」と抗議し、ウィリアムソン解雇の一因となった[9]
^ アイヴァン・クラールは当時のアリスタの看板ミュージシャンだったパティ・スミスの作曲パートナーでバンドマスターも務めていたが、この頃のパティ・スミスはフレッド・スミスとの交際を優先していてバンド活動が停滞している状態だった[9]
^ 「プレイ・イット・セーフ」には同じロックフィールド・スタジオでセカンドアルバム『リアル・トゥ・リアル・カコフォニー』をレコーディングしていたシンプル・マインズも同じアリスタ所属だったことからコーラス参加している[10]
^ クラールによれば、レコーディング参加初日からバンドマスターとして振る舞い始めたクラールに対し、ボウイから「イギーは私の友達だが、私の言うことは聞かない。だから、後はよろしく頼む。」と耳打ちされたと言う。実際、この後からクラールはイギーの右腕として様々な要求に応えていくことになる[9]
^ イギーのマネージャー、ビーター・デイヴィスはマネジメントを放棄して「(ウィリアムソンに続いて)次は自分がクビになる番だ。」と嘆くだけだったという[10]
^ プログレッシブ・ロックバンド、スプリング (ブログレッシブ・ロックバンド)(英語版)の元メンバー。この後、ロバート・プラントルー・グラムの常連プロデューサーとして活躍する[60]
^ キーボードのバリー・アンドリュースもレコーディング終盤に干されるような扱いを受けたため、ツアーには同行しなかった。キーボードはアイヴァン・クラールがギター兼任で務めた[10]
^ イギーはツアーの開始に合わせて、西ベルリンを離れてニューヨークに引っ越している[9]
^ ブライアン・ジェームズはこの時のツアーの様子を「ひたすらホテルとステージを往復しているだけで、 途中からどのホテルにいるのか、それが何時なのかさえも分からなくなるような状況だった。」と語っている[9]
^ クラールによると、当時のイギーはクラールも含め、雇用関係にあるバックバンドのメンバーは対等なバンドメイトとして扱わない節があり、ブライアンはその点についても不満を漏らしていたという[10]
^ この後にメンバーとなるマイケル・ペイジによれば、この時期のイギーはライブのチケット売上が主な収入源だったこともスケジュールがタイトになった原因だという。イギーの集客力はアルバムセールスに関係なく高かったため、ブッキングエージェントも多数の会場確保が可能だった[10]
^ ロックフィールド・スタジオに詰めていたアリスタのスタッフ(ジュリー・フッカー)は「レコーディングの終了は救いだった。」と語っている[10]
^ニューヨーク・ドールズのシルヴェイン・シルヴェイン(英語版)が結成したザ・クリミナルズを経て、チャビー・チェッカージェリー・リー・ルイスのバックバンドに在籍していた。またストゥージズを解散してロサンゼルスに住んでいた頃のイギーとは面識があった。ペイジは後に「今のバンドメンバーは外国生まればかりだから1人くらいアメリカ生まれを呼びたい。」とイギーが言い出したから、自分は演奏を聴かせていないのに合格した、と語っている[63]
^ アメリカのビルボードでは最高位126位[64]、イギリスのオフィシャルチャーツでは最高位62位[48]だった。
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