イギー・ポップ
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フォード・モーター・カンパニーの社長の息子と一緒に学校に通い始めたんだが、こいつは金持ちで差別的な奴だった。だが俺にはそんな連中に負けない財産があったんだ。両親は俺に莫大な投資をしてくれた。俺はいつも彼らに助けてもらってたよ。両親は俺が興味を持ったものをさらに深く知るための手助けを惜しまなかったんだ。最高レベルの援助はトレーラーの主寝室を俺に明け渡してくれた事だな[12]
ミュージシャンとして
初期の音楽活動: 1960年 - 1967年ザ・プライム・ムーヴァーズ(後方のドラムスがイギー)

オスターバーグはミシガン州アナーバーの高校在学時にドラマーとして音楽キャリアを開始した。いくつかのバンドでプレイしたが、そのうちのひとつ、ジ・イグアナズ(英語版)ではボ・ディドリーの「モナ (ボ・ディドリーの曲)(英語版)」をカヴァーしたシングルをリリースしている[10][注 3][注 4]
1965年ミシガン大学に進学したが翌年には退学し、レコードショップ「Discount Records」に勤務しつつ[注 5]ブールスバンド、ザ・プライム・ムーヴァーズ(英語版)に加入して、初めてステージネームを名乗った[15]
このザ・プライム・ムーヴァーズ在籍中にポール・バターフィールド・ブルース・バンドと偶然出会い、その際に憧れていた元メンバーのサム・レイ(英語版)の連絡先をバターフィールドから教えてもらったため、イギーはシカゴにあるレイの自宅に向かった[15]
訪問時にレイは不在だったが彼の妻に温かく迎えられ、ジャズやブルースを扱うレコード屋の店長を紹介された[16][注 6]。その店長やレイの紹介もあってリトル・ウォルターマジック・サムといった高名なミュージシャンたちと共演する機会に恵まれたが、その結果、白人の自分に本当のブルースを演奏するのは無理と痛感し、8ヶ月程度の滞在でアナーバーに戻った[17]際には「自分のような若者に向けた音楽」をプレイしようと決心していた[16][18]

アナーバーに戻ったイギーは高校の1年後輩で友人だったロン・アシュトン[注 7]を誘ってバンドを結成した。ロンの弟・スコット・アシュトンドラムスとし[注 8]、ロンは最初はベースだったが途中でギタリストに転向して、代わりのベーシストとしてアシュトン兄弟の友人だったデイヴ・アレクサンダー(英語版)[19]を加入させた[16]

結成当初は準備期間ということもあって表立った音楽活動はしていなかった[16]が、あるきっかけからバンド活動に本腰が入る。そのきっかけとしてイギーはニュージャージー州プリンストンのガールズ・ロックバンド、ジ・アンタッチャブルの演奏を聞いたことを挙げている[20]。俺たちはザ・ダーティ・シェイムズってバンドのコンセプトを持ってた時期があった。まあ、パーティで自慢するためだけのバンドだよ。「俺たちはザ・ダーティ・シェイムズってバンドを組んでるんだぜ。」って他のバンドマンに言って回ってたんだ。まだ演奏なんかしちゃいなくて、ザ・ストゥージズだろうがザ・ダーティ・シェイムズだろうが似たようなもんだった。ちゃんとバンドとして活動しないとな、と決心したきっかけはニューヨークに旅行に行った後だ。そこでティーンエイジャーの女の子たちから「私たちもバンドを組んでるの。聞いてみる?」と言われたんでニュージャージーのプリンストンまで車を飛ばして行ったんだ。彼女たちの実家の地下室で演奏を聞いたんだが、見事なものでね。俺たちよりもはるかに上手かった。あれは恥ずかしかったな[18]
ザ・ストゥージズ: 1968年 - 1974年詳細は「ザ・ストゥージズ#来歴」を参照
ザ・ストゥージズ: 1968年 - 1971年

イギーたちはバンド名をザ・サイケデリック・ストゥージズと決め、改めて活動を本格化させた。最初のギグは、ミシガン州デトロイトにある家のハロウィンパーティーで行われた[16]。この時はまだイギーはリードヴォーカルを担当しておらず、インストゥルメンタルバンドとして演奏を披露した[16][注 9]。しかし、フロントマンとしてのイギーは、後に自身を有名にすることになった観客を驚かせるようなパフォーマンスを既に意識的に行なっており、このギグでは奇抜な服装[注 10]で登場し、居合わせた客たちを困惑させた[16]。そのパーティにはMC5のメンバーも出席していた[10]
1968年3月、ザ・サイケデリック・ストゥージズは初めてギャラの出るギグに出演した。この時にイギーはステージダイブを披露し、歯を折った[16][18]。同年8月11日、ミシガンのMothersというクラブで、観客の女性を捕まえて犬の性交のように腰を振り、それからステージ上に登って性器を露出した。結局、警察がやってきて彼を逮捕した[21]。1970年8月のニューヨークのクラブUnganoでも、ステージ中に嘔吐したり、性器を露出してアンプの上に寝かせるパフォーマンスを行っている。1979年にはデニス・クーパーのLittle Caesar誌8号のカバーで、ヌード写真が掲載された[22]

イギーは、観客を驚かせて困惑させる過激なステージパフォーマンスについて、後年、ジム・モリソンの影響下にあったと語っている[11]1967年ザ・ドアーズがミシガン大学で行なったギグを見ており[23]、モリソンがステージで披露する悪ふざけや観客に向けた敵意に驚かされ、フロントマンとなった際の参考としたという。ドアーズは2回見てるよ。最初に見たのは人気が出始めの頃だったけど、大きな、大きな、大きな影響を受けたよ。ちょうど大ヒット曲「ハートに火をつけて」を出して出世の階段を駆け上っていくところで、だからこの男、カールした髪をオールバックにして革ジャンを着てドラッグに酔っていたモリソン、にしてみるとステージは狭過ぎたし低かった。全てがふさわしくない感じだった。本当に面白かった。彼のパフォーマンスが大好きだった。俺の一部は「おい、こいつはすごい。奴は本当に客を怒らせてるぜ」と思ってた。「くそったれ、お前ら空っぽ空っぽ空っぽだ」「マスでもかいてろ」と罵倒するモリソンに向かって客が押し寄せてた。だが一方、こうも思った。「彼らがレコードをヒットさせたら、こんな騒ぎとはおさらばだろう。だったら、俺達がバンドでこいつをやらない手はない」ってね。それは天啓だったな。「おい、これならできるぜ!」ってね。で、実際にそうしたのさ[24]

モリソンが人気バンドのフロントマンでありながら極端な振る舞いを見せていたため、イギーはそれを更に上回ることを意識した[注 11]。徐々に過激化していったイギーのステージパフォーマンスは、割れたガラスの上を転がりまわったり、群衆を前にして局部を露出するところまでに至ることになる[11]

バンド活動を続けていく中、デトロイトロックシーンの中心的存在だったMC5と繋がりを持ち[注 12]、様々なギグで共演を続けていくうちに、エレクトラ・レコードでザ・ドアーズのパブリシティを担当していたダニー・フィールズ(英語版)の目に留まり、1968年10月8日、MC5とともにエレクトラ・レコードとレコードリリース契約を締結することになった[15]


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