イギリス海軍
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キャラックグレート・ハリーメアリー・ローズが建造され、1545年にソレント海戦でフランス海軍と戦った。1547年にヘンリー8世が死去するまで、海軍は58隻まで増強された。

ヨーロッパの超大国であり、16世紀において一流の海軍をもつスペイン帝国は、イギリス海軍に対する優位とイングランドに侵攻するため、1588年オランダから無敵艦隊と上陸部隊を出撃させた。スペインの目論みはオランダの妨害とアルマダの海戦でドレーク・ノリス遠征艦隊に撃破されたため潰えた。また、エリザベス1世の統治中、大西洋を渡るスペインの船とスペインの港湾を襲撃し、莫大な富を王室へもたらした。

ヘンリー8世

エリザベス1世

コモンウェルスネイビー

イギリス海軍は誕生から存続し続けたわけではなかったが、イングランドでは17世紀中頃、チャールズ1世によって国家の資金で常備艦隊が維持されるようになった。

しかし、このことにより国家の財政が圧迫されたことが清教徒革命の原因ともなり、イングランド内戦チャールズ1世が敗北したため、イングランドはオリバー・クロムウェルが統治する共和国となり、海軍も「共和国海軍」となった。海軍は議会の指揮・監督を受けるようになり、これは王政復古後も定着している。

ところが、内戦で分裂した海軍には人材が残っておらず、やむなく議会派の大佐クラスの陸軍軍人を「ゼネラル・アット・シー(英語版)」に任命し、艦隊の指揮をさせた。その一人ロバート・ブレイクによって海軍は再建されたが、この再建は無計画な借金によって賄われており、その負債は王政復古後も残ることになる。
ロイヤル・ネイビーイングランド王位に就くためにロッテルダムを出港するチャールズ2世の艦隊。チャールズ2世

1660年、王制復古の宣言がされると、ロバート・ブレイクの死後ジェネラル・アット・シーの筆頭格だったジョージ・マンク将軍(後の初代アルベマール公)が王党派に転じ、後任のジェネラル・アット・シーであるエドワード・モンタギュー(後の初代サンドウィッチ伯爵)に対し、艦隊を率いて国王を亡命先のオランダへ迎えに行くよう指示した。モンタギューはこの頃地方に隠遁していたが、当時モンタギュー家の執事だったサミュエル・ピープスをロンドンに残し、彼を通じて議会の動向を把握しており、マンクの指示に従ってイングランド艦隊を掌握し、オランダからチャールズ2世を連れ帰った。

このように、イングランド海軍は王政復古に際し、全艦隊を挙げて王党派に転じたことでチャールズ2世によってその忠誠を賞され全幅の信頼を得、ロイヤルの称号が与えられて「ロイヤル・ネイビー(国王の海軍)」となった。ピープスは王政復古後、ネイビー・ボード(英語版)長官やイギリス海軍本部書記官(英語版)といった公職を歴任し、議会によるコントロール下の海軍の制度を整備し、共和国時代の負債解消に務めた。そのため、彼は「イギリス海軍の父」とも呼ばれている。

フランシス・ドレーク

ジョージ・マンク

初代サンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギュー

サミュエル・ピープス

世界進出

第2次と第3次英蘭戦争においてイギリス海軍は敗北した。その後、緩やかに世界で最強の海軍へと発展していったが、18世紀前半になるとイギリス海軍は他国の海軍に比べて財政的問題が深刻化し、活動と管理に悪影響を及ぼした。しかし、イギリス政府は債券を通して海軍に融資する方法を編みだし、資金を得たイギリス海軍は他国の海軍に対処する封鎖の戦略を開拓し始め、常に高い士気、優れた戦術と戦略の段階的発展、多量の資源に支えられた。

1805年から1914年まで、「ブリタニアは波頭を制す」(Britannia rule the waves、派生してルール・ブリタニアの詩・愛国歌として知られる)という言葉通り、世界中の海で圧倒的な支配力をもった。1805年以前もイギリス海軍の戦略的な失敗は、アメリカ独立戦争中に行われた1781年チェサピーク湾の海戦だけで、この時は有能なコント・ド・グラス(Comte de Grasse)の指揮するフランス艦隊に敗北した。

イギリス海軍の水兵が“ライミー”と呼ばれることがあるが、これはビタミンC不足による壊血病を防ぐ目的で、この時代に彼らにレモンライムを支給するようになったことに由来する[4]
ナポレオン戦争トラファルガー海戦ネルソン提督の戦死

ナポレオン戦争開戦時にはイギリス海軍の能率はピークに達し、全ての海軍に対して優位を占めるに至った。エジプト・シリア戦役では当初フランス軍に後れを取った対仏大同盟側がナポレオンの意図をくじくことに成功したのは、ナイルの海戦での勝利をはじめホレーショ・ネルソン提督率いるイギリス海軍の活躍あってのものであった。さらに1805年10月21日トラファルガーの海戦では、フランス軍によるグレートブリテン島本土侵攻の危機を打ち払う偉大な業績をあげた。数も少なく船も小型であったが、ネルソン卿指揮下の熟達した艦隊は、彼自身の生命を引き換えに、フランス・スペイン連合艦隊を相手に決定的な勝利を手にした。

トラファルガーの勝利は、ヨーロッパ諸国の制海権に勝るイギリスをより有利な立場にし、イギリス海軍は制海権を握ることで、必要な時に必要なだけの兵力を世界中に展開する戦略を確立していった。これは七年戦争を含めて19世紀の間に行われたイギリス帝国の建設で効果が証明された。

ナポレオンはイギリスの制海権と経済力に対抗するため、イギリスと取引するヨーロッパの港を閉鎖した(大陸封鎖令)。また、多数の私掠船を認可し、フランス領の西インド諸島から西半球のイギリス商船に圧力をかけた。イギリスは私掠船のために貴重な戦力を割くこともできず、そもそも大型な船は快速で機動力のある私掠船を追跡して撃破するには効果的ではなかったため、小型軍艦を建造して対応することにした。イギリス海軍は伝統的なバーミューダ様式のスループ帆船を発注し、その他にも多数の小型軍艦を用意した。

ナポレオン戦争中の1812年に、アメリカ合衆国がイギリスに宣戦布告してカナダに侵攻し、米英戦争が勃発した。より巧みに設計されたアメリカのフリゲートは、イギリスの軍艦より重いにも関わらず、より快速であった。そのため、幾度かイギリスの軍艦が敗北を被ることがあり、海軍本部はフリゲートとの交戦を禁止するほどであった。また、アメリカの私掠船による被害も深刻であった。しかし、イギリス海軍は徐々にアメリカの海上封鎖を強化していき、実質的に全ての取引を阻止した。アメリカ海軍のフリゲートも港に留まるか、拿捕の危険を冒すことを強要させた。

第一次対仏大同盟の結成以来、1815年にナポレオン戦争が終結するまで、イギリス海軍は344隻の船の103,660名の船乗りを失った。この損害は、民間の船乗りの海軍への強制徴募や、犯罪者にペナルティとして海軍への入隊を命じることで補填された。

ホレーショ・ネルソン提督


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