イギリス海軍
[Wikipedia|▼Menu]
ホレーショ・ネルソン提督

ヴィクトリー号、旗旒信号は「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する

改革と近代化チェロキー級ブリッグ、ビーグル (HMS Beagle)。石炭船との速度比較に使用された世界で初めて重油を使用した戦闘艦スパイトフル(英語版)

19世紀の間、イギリス海軍は海賊行為を抑えるため、強制的な奴隷売買の禁止を行い、世界地図を作り続けた。現在もアドミラリティー・チャートが存続している。海図作成の過程で海域や海岸の調査の任務も行い、チャールズ・ダーウィンは測量帆船「ビーグル」に乗って世界中を回り、航海中に行った観察の過程で進化論を導き出した。極地探検もナポレオン戦争後の比較的平和な時代のイギリス海軍が熱心に取り組んだ事業であり、北極圏を通る北西航路の遠征(フランクリン遠征など)や、南極大陸への遠征(ジェイムズ・クラーク・ロスの遠征や、ロバート・スコット南極点を目指したテラノバ遠征など)が海軍により組織されたが、多くの困難に直面し犠牲を出した。

イギリス海軍での生活は今日の水準と比較して厳しかったと言われている。規律が厳しく、戦時規約に服従させるためむち打ちが用いられた。法律では戦時に海軍の人員が不足した際は、徴兵が認められていた。この徴兵の方法は、徴募官と兵士が対象者のところに突然現れ、令状を突きつけると有無を言わさず基地に連行してしまうという逮捕まがいの強制徴募であり、評判が悪かった。しかし、大半のヨーロッパ諸国とは異なり、イギリスは常備軍が小さかったため徴兵を実施する必要性はむしろ低く、徴兵は18世紀と19世紀の前期こそ多かったが、ナポレオン戦争の終結と共に廃止された。

19世紀半ばまでイギリス海軍では「高貴なる義務感(noblesse oblige)」を備え、幼児期からリーダーとしての教育を受けた者が将校としての優れた素質を持つという考えが支配的だった。そのため、イギリス海軍では知的な能力や実績よりも勇敢さや名誉などが重視された。当時の海軍将校は12?14歳で艦長或いは将官の縁故による任命で艦船に乗り込むことからそのキャリアを始め、艦長の保護の元実地経験を積むのが一般的であった。イギリス海軍のネルソン提督(Horatio Nelson)は「海軍将校にとって必要な教育は、ダンスとフランス語だけでそれ以外は勘で仕事ができる」と豪語したと伝えられる。縁故により採用された少年たちはその後2年間程度の経験を経て、少尉候補生へと昇進し、その上で6年間の経験をえて19歳になっていれば少尉へと昇進し、大尉として正式に任官される資格を経ることになる。そしていったん大佐になるとその先は完全な年功による昇進となり、予備役制度の存在しない当時は死ぬまで海軍任官リストで上位に上がっていくという仕組みだった。19世紀のイギリス海軍では、トラファルガー海戦を戦った年代の人間が上位のポストを独占し、大きな問題を引き起こしていた。

事態の打開策として、1847年には200人ほどの大佐を少将に昇格させた上で任官者リストから外す決定がされた。続いて1851年には現役の大佐の人数を450人に限定した。これらの手法は中佐や少佐にまで拡大され、海軍省による高級将校の人数の制御が行われるようになった。これらの一連の改革の一環として、1806年にはそれまで王立海軍アカデミーと呼ばれた海軍学校が王立海軍カレッジに改名されるとともに、施設も拡張され、理論的な教育を主体とした海軍学校が生まれた。しかし、保守的な将校団の反発によりこのような改革は徹底されず、ナポレオン戦争時になっても王立海軍カレッジの出身者は海軍将校全体の3%以下だった。改革を行う学校機能は、ポーツマスに1830年に係留されたエクセレント(HMS Excellent)での砲術学校に移り、砲術の体系的な訓練や高度な数学の教育が行われた。エクセレントでの実績により、1854年以降はイラストリアス( illustrious )が、1859年以降はブリタニア( Britannia )が士官学校として利用されるようになり、海軍省通達288号により、以後すべての海軍将校がここでの教育を受けることを義務付け、イギリス海軍における初の体系的な教育機関が完成した。

イギリス海軍は、世界海軍力第2位フランス海軍と同第3位ロシア海軍の艦隊戦力を合計した数と同等以上の戦力を整備するという二国標準主義が採用されてきた。これに基づき、19世紀末までにイギリス海軍はロイヤル・サブリン級戦艦といった強力な蒸気機関を持つ新型戦艦を建造し、強大な海軍力を維持し続けた。しかし、膨張した戦力は順調な世代交代を困難にし、旧式化した戦艦、数十年ほど経過した帆船も数多く残していた。

第一海軍卿ジョン・アーバスノット・フィッシャーはそれらの旧式化した艦船の多くを退役させるか、廃棄させることで資金と人材を生み出し、新造艦の建造を可能にした。特にフィッシャーは全て大きい砲で統一するという海軍史に最も影響を与えた戦艦「ドレッドノート」の開発に尽力した。また、ビッカース社のジョン・フィリップ・ホランドが設計した潜水艦も購入し、潜水艦の導入と艦船の燃料を石炭から重油に切り替えることも奨励した。燃料の切り替えは、実験とパーソンズが開発した新式の蒸気タービンによって速度と航続距離の向上に繋がった。

エクセレント (HMS Excellent) の艦長パーシー・スコット (Percy Scott) は新しい砲撃訓練の計画と中央射撃管制所を導入した。これは命中精度の改善と効果的な戦闘ができるようになった。
第一次世界大戦と軍縮条約戦艦ドレッドノート (HMS Dreadnought)クイーン・エリザベス級戦艦ウォースパイト (HMS Warspite)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:113 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef