イギリス・ルネサンス演劇
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俳優たち(特にエドワード・アレンのような看板俳優)には絶大な負担がかかったと考えられる。特筆すべき特徴は、当時の劇団は男性によってのみ構成されていたということである。チャールズ2世の時代まで、女性の役は若い少年俳優が女装して演じていたのである。
作家

ロンドンの人口増加や住民の富の増大、また人々の見世物趣味によって、多様性や特質や範囲のいずれにおいてもきわだった劇文学が生み出されていった。エリザベス朝時代に書かれた演劇作品のほとんどは散逸してしまったが、それでも600作以上が現存している。

これらの戯曲を書いた人物の多くは、さほど高くない身分から叩き上げで腕を磨いた作家であった(女優が存在しなかったのと同様、女性の専業作家も存在しなかった[8])。オックスフォード大学やケンブリッジ大学で高等教育を受けた者もいるが、多くの作家は無学であった。シェイクスピアは俳優でもあったことで知られているが、大多数の作家は演者ではなかったと見られている。また、1600年以降は作家にとって舞台に上がることは収入の助けにならなかったことが知られている。

当時の劇作家の中には、今日の詩人や知識人のイメージとそぐわないものもいる。クリストファー・マーロウは居酒屋での勘定をめぐる口論から喧嘩になり刺殺されたと推定されており、ベン・ジョンソンは決闘で1人の俳優を死に至らしめている。兵士であったと推測される劇作家もいる。

劇作家は執筆している途中に少しずつ原稿料を受け取るのが通例で、完成して劇団に受理されてからは、その日の公演による収益からさらなる報酬が支払われた。しかし、劇作家には自分の書いた作品の知的財産権がなかった。戯曲がいったん劇団に売却されると、この戯曲は劇団の所有物となり、上演にあたっての配役や演出、改訂や出版などに関して作者は一切関与できなくなっていたのである(劇団の座付き脚本家であると同時に俳優であり、自分の劇団の共同株主でもあったシェイクスピアなどは事情が若干異なる)。

専業劇作家という職業は骨の折れる仕事であり、決して儲かるものではなかった[9]。フィリップ・ヘンズロウの日記(当時の劇壇の事情を知る重要な資料として知られる)の記述によれば、1600年ごろにヘンズロウは戯曲1本につき6ポンドか7ポンド程度しか支払っていない。これは最低限の報酬であったと推測されるが、最も優秀な劇作家でもこれを大きく超える額を要求できたわけではない。1人の劇作家が単独で執筆した場合、1年に書き上げられる戯曲は多くて2本であった。1630年代にリチャード・ブルームは1年に3本の戯曲を提供するという契約をソールズベリ・コート座と結んでいるが、結局この仕事量は履行不可能であった。シェイクスピアの場合も、20年以上にわたる執筆活動を通じて生み出した単独作品は40本に満たない。シェイクスピアが経済的に成功しえたのは、俳優でもあったことに加え、自分の劇団および劇団の使用していた劇場の株主としての収入があったためで、作家としての原稿料だけで糊口をしのいでいたのではないことに注意する必要がある。ベン・ジョンソンの場合は、大衆演劇よりもむしろ宮廷での仮面劇の作家となったことに加え、当時の社会的・経済的生活において重要となるパトロンを得る駆け引きの才に長けていたことが成功の要因としてあげられる。純粋に劇作家としてのみ活動していた人々は、彼らほどの収入を得ることができなかった。ジョージ・ピールやロバート・グリーンといった初期の作家や、ブルームやフィリップ・マシンジャーといった後期の作家は、いずれも経済的には不安定で、苦難と貧困に満ちた生涯を送っている。

脚本を生み出すうえでのこうした限界に対処するため、劇作家たちは2人から4人、場合によっては5人でチームを組んで執筆にあたった。そのためこの時代の戯曲は多くが複数の作家による合作であり、ジョンソンやシェイクスピアのように合作を避けておおむね単独で執筆した作家は例外的な存在である。共同で作品を書くということは、原稿料も分割するということを意味する。しかし、それでも合作をする方が一般的であったということは、そうするだけの価値があったということである。トマス・デッカーにいたっては、現存しているだけで70以上ある作品のうち、およそ50篇が合作である。1598年の1年間に、デッカーは興行主フィリップ・ヘンズロウのために16篇もの合作を行ない、30ポンド(1週間に換算すると12シリング弱)を得ている。当時の平均的な職人の日給が1シリングであったことを考えると、2倍近い収入だったことになる[10]。トマス・ヘイウッドが、「全部書いたか、少なくとも手を加えた」作品が220篇にのぼると晩年に豪語していることはよく知られている(現存しているのは1割程度)。単独作家の場合、1つの戯曲を仕上げるのに数ヶ月を要した(ジョンソンは『ヴォルポーネ』("Volpone")をわずか5週間で執筆したともいわれるが)。一方、ヘンズロウの日記によれば、4人ないし5人の作家による共作ならば戯曲1本に要する時間は2週間弱である。しかし明らかに、ヘンズロウお抱えの作家チーム(アンソニー・マンデイ、ロバート・ウィルソン、リチャード・ハサウェイ、ヘンリー・チェトル他。若き日のジョン・ウェブスターを含むこともある)はきちんと企画を推進するかたわらで、とても舞台には乗せられないような失敗作も生み出していた(この時代の合作に関する現代人の理解は、失敗作がおおむね跡形もなく消え去ってしまったために、現存する成功作からのみ推測されるためバイアスが掛かりがちである。例外的な作品としては『サー・トマス・モア』("Sir Thomas More")がある)[11]
終焉

当時勢力を拡大しつつあった清教徒は劇場に対して敵意を抱いていた。清教徒が劇場を罪深いものと非難したことにはいくつかの理由がある。最も一般的に指摘される理由は、女性の役を演じるために若い男性が女装するのを倒錯的とみなしたというものである。また、公設劇場は一般市民向けに設立されたことから、建設場所が売春宿の密集地や犯罪多発地帯の近辺であることが多かったため、劇場も犯罪の温床であると決めつけられたことも大きな理由である。清教徒革命とこれに誘発されたイングランド内戦が勃発してまもないころ、ロンドン市内の統治権を掌握した議会内の清教徒は、1642年9月2日にすべての劇場の閉鎖を命じた。これには上述のような倫理的口実の他に、これらの劇場でしばしば上演されていた清教徒を批判する内容の諷刺劇を弾圧するという政治的な理由も加わっていた。当局の目を逃れてひそかに上演を続ける者もいたが、上演者は投獄するという政令が発布されるにいたり、イギリス・ルネサンス演劇は実質的に息の根を止められた。

1660年王政復古とともに劇場は活動を再開した。その間、多くの劇作家たちは国王チャールズ2世とともにフランスへ亡命し、ルイ14世治下の華やかな演劇活動に触れ、特に悲劇の分野は大きな影響を受けていた。王政復古時代の観客は、モリエールの作品のような簡潔で洗練された喜劇にはさほど関心をもたず、仰々しく波乱万丈で錯綜した筋とスピード感に溢れた喜劇を好んでいた。そのため、王政復古時代の喜劇には多くの場面、大勢の登場人物、ごった煮の様式(つまりは三一致の法則の無視[12])といったエリザベス朝時代の特色が残存することとなった。ルネサンス期の古典作品は王政復古期の主要レパートリーとなったが、悲劇作品の多くは時代の風潮に合わせた脚色がなされた。
分野

この時代の戯曲には、大きく分けて史劇、悲劇、喜劇という3つのジャンルがある。

史劇とは、イギリスやヨーロッパ諸国の歴史を題材とした戯曲である。『リチャード三世』や『ヘンリー五世』など、歴代国王の生涯を描いたシェイクスピアの史劇が代表的な作品である。他の劇作家の作品としては、クリストファー・マーロウの『エドワード二世』("Edward II")やジョージ・ピールの『エドワード一世』("Famous Chronicle of King Edward the First")がこのカテゴリに含まれる。

悲劇も一般受けのよいジャンルであった。なかでもマーロウの悲劇作品『フォースタス博士』("The Tragical History of Doctor Faustus")や『マルタ島のユダヤ人』は非常に人気があった。観客が特に好んだのはトマス・キッドの『スペインの悲劇』("The Spanish Tragedy")のような復讐劇であった。ジョン・ウェブスターの『マルフィ公爵夫人』("The Duchess of Malfi")にいたっては、全篇これ血みどろの惨劇のオンパレードである。

喜劇も一般的だったジャンルである。この時期に発達したサブジャンルとして、市民喜劇(都市喜劇とも)がある。これはローマの新喜劇にならってロンドンの市民生活を諷刺的に描いたものである。トマス・デッカーの『靴屋の祭日』("The Shoemaker's Holiday")やトマス・ミドルトンの("A Chaste Maid in Cheapside")が例としてあげられる。

これらの戯曲が発展してゆく中で時代に取り残される形にはなったが、牧歌劇("The Faithful Shepherdess"、1608年)や道徳劇("Four Plays in One"、1608年 - 1613年)といった古い形式が影響を与えることもあった。また仮面劇と同様、悲喜劇の新しい混交型サブジャンルが1610年代以降(ジェームズ朝とチャールズ朝を通じて)開花した。
一覧
主な劇作家
ロバート・ウィルソン
(Robert Wilson)ジョン・ウェブスター(John Webster)トマス・キッド(Thomas Kyd)ロバート・グリーン(Robert Greene)ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)ジェームズ・シャーリイ(James Shirley)ベン・ジョンソン(Ben Jonson)ウィリアム・ダヴェナント(William Davenant)シリル・ターナー(Cyril Tourneur)ヘンリー・チェトル(Henry Chettle)ジョージ・チャップマン(George Chapman)ジョン・デイ(John Day)トマス・デッカー(Thomas Dekker)トマス・ナッシュ(Thomas Nashe)リチャード・ハサウェイ(Richard Hathwaye)ジョージ・ピール(George Peele)ネイサン・フィールド(Nathan Field)ジョン・フォード(John Ford)リチャード・ブルーム(Richard Brome)ジョン・フレッチャー(John Fletcher)トマス・ヘイウッド(Thomas Heywood)フランシス・ボーモント(Francis Beaumont)ジャーヴェス・マーカム(Gervase Markham)フィリップ・マシンジャー(Philip Massinger)ジョン・マーストン(John Marston)クリストファー・マーロウ(Christopher Marlowe)アンソニー・マンデイ(Anthony Munday)トマス・ミドルトン(Thomas Middleton)ジョン・リリー(John Lyly)ウィリアム・ローリイ(William Rowley)
主な俳優
ロバート・アーミン(Robert Armin)エドワード・アレン(Edward Alleyn)アレクサンダー・クック(Alexander Cooke)ウィル・ケンプ(Will Kempe)ヘンリー・コンデル(Henry Condell)ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)リチャード・タールトン(Richard Tarlton)ジョーゼフ・テイラー(Joseph Taylor)ニコラス・トゥーリイ(Nicholas Tooley)リチャード・バーベッジ(Richard Burbage)クリストファー・ビーストン(Christopher Beeston)オーガスティン・フィリップス(Augustine Phillips)ネイサン・フィールド(Nathan Field)トマス・ヘイウッド(Thomas Heywood)ジョン・ヘミングス(John Heminges)ジョン・ローウィン(John Lowin)ウィリアム・ローリイ(William Rowley)


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