イギリスの欧州連合離脱
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ブレグジットの支持者は「ブレクシティア」Brexiteers[61][62] または「ブレグジッター」Brexiters[63] と呼ばれている。代替的に「リーヴァー」Leavers という用語もメディアで使用されている[64][65]。反対語は「リメイナー」"Remainers" である。
カナダプラス―Canada Plus
英国がEUを離脱し、
自由貿易協定に署名するモデルを指す省略表現である。これにより、英国は非EU諸国との間で独自の通商政策を取ることができるが、英国―EU間の貿易については原産地規則協定が合意に達することが求められる。このため、欧州自由貿易連合 (EFTA) に参加するよりも「自由」ではなくなり、追加の国境管理が必要となる可能性がある点で、特にアイルランド島では論争の的となっている。カナダ―EU間での交渉はおよそ7年を要したが、英国―EU間では既に規制基準が調整されているので、交渉期間ははるかに短縮されるだろうと離脱派は主張している[66]
チェッカーズプラン―Chequers plan
チェッカーズプラン (Chequers plan
) とは、「英国と欧州連合の間の将来的な関係の枠組み」と題してチェッカーズ[注 2]で起草され、2018年7月12日に刊行された政府白書に対してメディアが付けた簡略な呼称。英国政府が考える、ブレグジット後のEUとの望ましい関係性について説明されている[67][68]。2018年11月22日、英国政府は新たな草案を発表した[69]
離脱清算金―Divorce bill
英国はEUの加盟国であるうちに承認した財政的な義務への貢献を行うものと期待されるが、一方で未払いのまま離脱することも予想される。交渉の初期段階では、清算金は「単一金融決済」 (the single financial settlement) または単に「決済」 (the settlement) と呼ばれていた。とりわけメディアでは、「離脱清算金」 (exit bill) または「離婚手形」 (divorce bill) とも呼ばれているが、EU側は「決算」 (settling the accounts) と言及している
[70]。メイ政権の欧州連合離脱大臣ドミニク・ラーブは、ノーディール(合意なし)での離脱シナリオとなった場合、EUへの金銭的な支払いはないと述べた[71]。2018年11月、離脱契約による離脱清算金は総額390億ポンド(およそ5兆6000億円)になると公表されたが、さらに膨らむ可能性もある[72]
フレックステンション―Flextension
2019年3月21日にブリュッセルで行われた会合でEU側が英国に提案した、3月29日以後も英国が継続してEU加盟国でいられる期限の延長のこと
[73]
意味ある投票―Meaningful vote
「意味ある投票」 (meaningful vote
) とは、EUとの交渉の結果に関して庶民院(議会下院)の場で討議して票決するために、欧州議会が欧州連合条約第50条2項に従ってEUを代表して離脱協定を承諾するかどうか決定を下すよりも前に、政府に動議提出の承認を手配するよう求め、欧州連合離脱法2018第13条2項に基づいて実施する投票を指す[74]
管理された合意なき離脱―Managed no-deal
「管理された合意なき離脱」 Managed no-deal Brexit
[75] または managed no deal Brexit[76] とは、英国がEUと何ら離脱合意(条約締結)に至らない状態で欧州連合条約(リスボン条約)第50条に基づく離脱の通知に従ってEUを離脱する場合に求められる一連の複雑な政治的、法的および技術的決定を指して、2018年の終わり頃からよく使われるようになった用語。
ノルウェーモデルまたはノルウェープラス―Norway Model or Norway plus
EUを離脱しても、
欧州自由貿易連合 (EFTA) と欧州経済領域の加盟国となることで、関税同盟に加わる ("plus") 可能性を残すモデル (Norway plus) を指していう省略表現。ノルウェーモデルでは、英国は単一市場に留まることができる一方、共通漁業政策共通農業政策および欧州司法裁判所 (ECJ) に従う必要はなくなる。英国はEFTA裁判所の対象となることによって、ECJに大きな影を落とし、大量のEU法を英国法に転換しなければならなくなり、(英国がその一部を引き受けざるを得なくなるであろう)EUのルールを形作ることにほとんど口出しできなくなる。また、英国はEUと英国の間の移動の自由を認めなくてはならず、国民投票においても重要な論点としてみられていた[77]
残留派―Remainers
英国のEU残留を支持する人々は、しばしば「リメイナー」Remainers と呼ばれる
[78]。また、残留派に対する軽蔑的な用語である「リモーナー」Remoaners(残留派を表す remainer と不平家を意味する moaner の混成語)は、親ブレグジットなメディアによって時々使用されている[79][80]
離脱に至る背景
歴史的経緯1975年度と2016年度の国民投票の比較。

1951年、「インナー6」と呼ばれた欧州諸国はパリ条約に調印し、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)を設立した。1955年のメッシーナ会議でECSCが成功したと考え、概念をさらに拡張することを提案、1957年、ローマ条約欧州経済共同体(EEC)と欧州原子力共同体(Euratom)設立へとつながった。1967年、これらは欧州共同体(EC)として知られるようになる。イギリスは1963年と1967年にECへの加入を試みたが、申請は当時のフランス大統領シャルル・ドゴールの反対によって拒否された[81]。ドゴールがフランス大統領を辞任した後、再度イギリスは加盟を申請し、1972年、保守党のエドワード・ヒース首相時に加盟条約に署名した[82]。同年、議会は欧州共同体法1972(ECA 1972)を可決、1973年1月1日、イギリスはデンマークアイルランドとともにECのメンバーになった[83]

1974年10月、総選挙で野党労働党はEC加盟はイギリスにとって不利だとし、加盟条件を再交渉することを公約、その後新しい条件でEC残留の是非を問う国民投票をおこなうことを約束した。労働党は選挙に勝ち、1975年にイギリスは初の国民投票をおこなった。労働党内での分裂にもかかわらず[84]、主要政党と主流メディアはECへの継続的な加盟を支持した[85]。1975年6月5日、投票者の67.2パーセント、2つを除くすべての地方がEC撤退を支持しないとする結果をだした。

1983年、総選挙において労働党は国民投票なしでECから撤退することを公約して選挙戦に臨んだが、大差での敗北の後、党はその方針を変更した[86]。1985年、サッチャー政権は国民投票なしに単一欧州議定書ローマ条約の最初の大きな改正)を批准した。

1990年10月、マーガレット・サッチャー首相の強い留保の意向にもかかわらず、閣僚からの圧力によって英国は欧州為替相場メカニズム(ERM)に加わり、ポンドはドイツマルクに対し固定された。サッチャーは、保守党の分裂が彼女の欧州懐疑主義的な傾向によって増幅されるなか、翌月首相を辞任した。1992年9月、英ポンドと伊リラが通貨投機の圧力を受けた後、イギリスとイタリアはERMからの撤退を余儀なくされた(ポンド危機)。これによりイギリスは統合通貨(ユーロ)への加入に及び腰となった。

1993年11月1日、マーストリヒト条約下において欧州共同体(EC)は欧州連合(EU)になった[87]。これは組織が経済連合から政治連合へと進化したことを意味する[88]


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