イギリスの映画
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しかしながらマイケル・パウエルアルフレッド・ヒッチコックなど、多くの映画製作者たちはこの時期に彼らの技術を磨いた。

サイレント期、観客達はさまざまな国からの映画を楽しむことが出来た。しかし、トーキーに入ってから、外国人俳優たちや強い訛りのある俳優たちは人気がなくなり、「フォーマル」な英語(容認発音) が求められるようになる。トーキーはアメリカ映画の人気を更に増す結果にもなった。

アルフレッド・ヒッチコックの『ヒッチコックのゆすり』(1929年)はイギリス最初のトーキー映画であるが、音の入った部分は一部であった。同年、全編トーキーの作品 "The Clue of the New Pin" が公開された。この作品はエドガー・ウォーレスの小説が原作で、ロンドン郊外のビーコンズフィールドのスタジオで製作された。初めてのオールカラーでトーキー(音なしで撮影され、後にサウンドトラックが追加された)の作品 "A Romance of Seville" も1929年に公開された。1930年、初のオールカラーなおかつ全編トーキーの作品 "Harmony Heaven" が公開された。

1930年代には記録映画作家ジョン・グリアソンが旗手となった新たな動きである The Documentary Film Movement (ドキュメンタリー映画運動)が起こる。グリアソンはドキュメンタリー映画をノン・フィクション映画と形容し、1936年にW・H・オーデンの詩を取り入れた重要な作品 "Night Mail" をプロデュースした。この運動の他の主要人物にはハンフリー・ジェニングス、ポール・ローサ、アルベルト・カヴァルカンティなどがいる。

この時期、イギリス映画界には新しい才能が台頭してきていた。アルフレッド・ヒッチコックはハリウッドに移る前に撮影したスリラー映画『暗殺者の家』(1934年)、『三十九夜』(1935年)、『バルカン超特急』(1938年)などでその地位を確立した。

また演芸場の影響を受けたコメディ映画が人気を博し、ジョージ・フォームビー、グレイシー・フィールズなど多くのコメディアン・俳優・歌手が現れた。

1930年代の主な作品の多くは、ハンガリーからの移民であったアレクサンダー・コルダの製作会社ロンドン・フィルム(London Films)によって製作された。1933年に、コルダはハリウッドのユナイテッド・アーティスツと提携し、数多くの作品を世に送り出した。その中には『来るべき世界』(1936年)、『鎧なき騎士』(1937年)、『四枚の羽根』(1939年)、『バグダッドの盗賊』(1940年)などがある。

1920年代後半から1930年代初期の好景気は、膨らむ支出や楽観的すぎる拡張のせいで、1937年に終焉を迎えた。1925年から1936年の間、640もの映画製作会社が設立されたが、1937年の時点で残っているのはたったの20であった。また、1927年に制定された法令 Cinematograph Films Act 1927 が更改された。 The replacement Cinematograph Films Act 1938 は、質の高い作品を作るよう、イギリスの映画製作会社に奨励金を与えるものであった。一つの結果として、アメリカの映画製作会社 メトロ・ゴールドウィン・メイヤーがイギリスのハートフォードシャーにスタジオ(MGM British)をかまえ、『響け凱歌』(1938年)、『チップス先生さようなら』(1939年)など多くのヒット作を生み出した。この結果はイギリス映画の発展に大きく貢献した。
第二次世界大戦

第二次世界大戦下で課された制限は、イギリス映画界に新しいエネルギーを吹き込む結果となった。 当初は低迷したが、次第にドキュメンタリー手法を用いたり、ドキュメンタリー作家たちがより現実的な作品を製作するようになり、大戦のイメージを良くするのに一役買っていった。よく知られている作品として『軍旗の下に』(1942年)、『最後の突撃』(1944年)などがある。大戦後期にはゲインズボロー・ピクチャーズ (Gainsborough Pictures) が『灰色の男』(1943年)や『妖婦』(1945年)など一連のメロドラマを製作、大いに人気を博した。こういった動きによってスチュワート・グレンジャーマーガレット・ロックウッドジェームズ・メイソンなどの新しいスター達が生まれた。インデペンデント系製作会社のトゥー・シティズ・フィルムズ (Two Cities Films) もいくつかの重要な作品 ? デヴィッド・リーンの『幸福なる種族』(1944年)や『陽気な幽霊』(1945年)、 ローレンス・オリヴィエの『ヘンリィ五世』(1944年)や『ハムレット』(1948年)を生み出した。 また戦時中はマイケル・パウエルエメリック・プレスバーガーの協力関係の始まりにより、『潜水艦轟沈す』(1941年)、『老兵は死なず』(1943年) 、『カンタベリー物語』(1944年)など質の高い作品が生み出された。
戦後

1940年代の終わり、J・アーサー・ランクの設立したランク・オーガニゼイション(Rank Organisation)がイギリス映画界で力を付け始める。


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