イエメン共和国
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イエメン・アラブ共和国が成立するも、北イエメン内戦が勃発(?1970年)。

1963年 - アデン保護領を南アラビア保護領1963年 - 1967年)に改称。

1965年 - アル=マフラ県に隣接するオマーンドファール地方で、南イエメンが支援するDhofar Liberation Front(DLF)によるドファールの反乱(英語版)(1962年-1976年)が激化。
北イエメン南イエメン
英領南アラビア独立[ソースを編集]

1967年 - 英領南アラビア保護領(南イエメン)が、南イエメン人民共和国1967年 - 1990年)として独立。後にイエメン人民民主共和国へ改称。

1989年11月30日 - アデン合意により南北統一への途が開かれる。

南北統一[ソースを編集]

1990年5月22日 - イエメン・アラブ共和国(北イエメン)とイエメン人民民主共和国(南イエメン)が合併(イエメン統一)し、現在のイエメン共和国が成立。成立したイエメン共和国の初代の大統領として北イエメン大統領を務めていたアリー・アブドッラー・サーレハが務めることになる。

南部での再独立を求める反乱[ソースを編集]

1994年5月4日 - 旧南側勢力が再独立(イエメン民主共和国)を求め、イエメン内戦が勃発。しかし、南側勢力は国際的な支持を得られず、約2ヶ月で鎮圧される(?7月7日)。

初の大統領選挙[ソースを編集]

1999年9月23日 - 国民直接投票による初めての大統領選挙が行われる。サーレハ大統領が再選する。

2000年6月12日 - ジッダ条約(英語版)により、サウジアラビアとの国境線が画定し、領土面積が正式なものとなる。

アルカーイダによる襲撃[ソースを編集]

2000年10月 - 旧南イエメンの首都であったアデンにあるアデン港で、イスラム原理主義勢力アルカーイダによる米艦コール襲撃事件が起こる。なお、ハドラマウト(イエメンのアル=マフラ県、オマーンのドファール地方を含む)はアルカーイダの指導者だったウサーマ・ビン・ラーディンの父親の出身地。

イエメンでアラブの春発生[ソースを編集]

2011年1月 - チュニジアでのジャスミン革命エジプトでの民衆革命に影響を受けて市民による反政府デモが発生(アラブの春2011年イエメン騒乱)。この結果、サーレハ大統領は退陣し、ハディ副大統領が翌年2月の暫定大統領選挙で当選。「2014年-2015年イエメンクーデター(英語版)」を参照

2015年内戦[ソースを編集]詳細は「イエメン内戦 (2015年-)」を参照内戦における勢力分布。赤がハーディー政権、緑がフーシ派、白はISIL、黄色は南部暫定評議会(随時更新)

年表年月日出来事
2015122イスラム教シーア派武装組織のフーシクーデターを起こし、ハーディー暫定大統領とバハーハ(アラビア語版、英語版)首相が辞任、政権崩壊[5](ハーディーは2月21日に辞意を撤回)。
26フーシが議会を強制的に解散し、暫定統治機構として大統領評議会を開設し、「憲法宣言」を発表。
221ハーディー暫定大統領が辞意を撤回、フーシ派との対立が開始[5]
325フーシ派がハーディー暫定大統領の拠点である南部の港湾都市アデンへと進撃し、ハーディー暫定大統領は大統領宮殿からボートで脱出[6]。フーシ派がハーディー暫定大統領の捕縛に2000万イエメン・リアル(約1100万円)の報奨金をかけ、行方を追う事態となった[6]
26ハーディー暫定大統領を支援するサウジアラビアなどスンナ派のアラブ諸国が空爆を開始[5]。フーシ派はイランが支持し、スンナ派対シーア派の構図の内戦となった[5]
717ハーディー政権派がフーシ派から、イエメン第2の都市である南部のアデンを奪還したと発表[7]
84ハーディー政権派がイエメン最大のアルアナド空軍基地をフーシ派から奪還したと発表[8]
11中東のテレビ局「アルジャジーラ」がハーディー政権派がアビヤン州を制圧したと報道[9]。2015年3月以降、ハーディー政権派は国内の拠点をほとんど失っていたが、サウジアラビアアラブ首長国連邦の軍事支援により失地回復を果した[9]
15ハーディー政権派が中部シャブワ州を奪還[10]。5つ目の州の奪還となった[10]。ハーディー政権派はサウジアラビア主導の空爆支援を、アラブ首長国連邦などから武器供与や軍事顧問団の支援を受け、攻勢に転じていると報じられた[10]
19アムネスティ・インターナショナルが、イエメンの首都サナアアデンタイズへ攻撃を行っているサウジアラビアを戦争犯罪を行なっているとして非難[11]。アムネスティーによれば、この紛争により少なくとも1900人以上の一般住民が死亡したという[11]
24WFPが「(イエメンの人口の2割以上に当たる)600万人が深刻な食糧難に陥り、緊急支援を必要としている」と指摘[12]。「数百万人規模の飢餓が引き起こされる恐れがある」と警告[12]
922サウジアラビアに逃れていたハーディー暫定大統領が、半年ぶりにイエメンに帰還し、イエメン南部の拠点都市アデンに入り、首都奪還に意欲を示した[13]
103ジュネーブで開かれた国連人権理事会の通常会期で、オランダが内戦状態のイエメンへの調査団派遣を求める決議案を提出したが、イエメンで空爆を続ける紛争当事国のサウジアラビアが阻止し、オランダは決議案を取り下げた[14][15]


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