イエス_(バンド)
[Wikipedia|▼Menu]
1972年2月から3月にかけての3回目のツアーが催行された時、『イエス・サード・アルバム』と『こわれもの』がアメリカでゴールド・ディスクを獲得している。
ビル・ブルーフォードの脱退

『危機』のレコーディングが完了した直後にビル・ブルーフォードは脱退してキング・クリムゾンに移籍した。そのため、ジョン・レノンプラスティック・オノ・バンドなどのセッションで活動していたアラン・ホワイトが加入し、1972年7月からの4回目のアメリカ・ツアーが行なわれている。翌1973年にリリースされた3枚組ライブ盤『イエスソングス』では、ドラムスのほとんどをアラン・ホワイトが担当したテイクで構成されており、「遥かなる思い出?ザ・フィッシュ」や、ドラム・ソロを含む「パーペチュアル・チェンジ」はビル・ブルーフォードのドラムスによる演奏が使用されている。
『海洋地形学の物語』
US.コロンビア公演(1974年)

クリス・スクワイア

ジョン・アンダーソン

スティーヴ・ハウ

リック・ウェイクマン

アラン・ホワイト (ドラム) - 新加入

1973年にアルバム『海洋地形学の物語』が発表された。1973年の初来日公演中にアンダーソンが読んでいたヒンドゥー教僧侶の著書からインスパイアされた作品である。大作指向はエスカレートし、LPレコード2枚組で各面が1曲、計全4曲という構成となった。
リック・ウェイクマンの脱退

『海洋地形学の物語』のコンセプトや出来そのものに不満を感じ、コンサートでのそれらの曲の演奏に飽き飽きしていたウェイクマンは、自身のソロ活動の成功もあって、1974年5月にイエスを脱退した。
『リレイヤー』


クリス・スクワイア

ジョン・アンダーソン

スティーヴ・ハウ

アラン・ホワイト

パトリック・モラーツ(キーボード) - 新加入

ウェイクマンの後任候補としてアフロディテスチャイルドのキーボードでギリシャ人のヴァンゲリス・パパサナシューの名前が挙っていたが、ユニオン(音楽家組合)の問題(当時、組合の主導により、外国人のイギリスでの音楽活動が極度に制限されていた)などで実現しなかった。この時のヴァンゲリスとの接触は、後にアンダーソンとのユニット「ジョン・アンド・ヴァンゲリス」へと発展する。また、ロッド・アージェントにも後任への打診があったことがアージェント本人によって語られている。

結局、プログレッシブ・バンド「レフュジー」のスイス人キーボード奏者・パトリック・モラーツがスカウトされ、1975年8月にイエスに参加し、アルバム『リレイヤー』が制作・発表された。『リレイヤー』は「戦争と平和」(トルストイの著書とは無関係)をテーマとし、モラーツはフュージョンの要素を多く持ち込んでいる。

この時期、1976年まで続く精力的なツアーを行い、メンバー全員がソロ・アルバムを発表し、コンピレーション『イエスタデイズ』の発表も行っている。
『究極』
US.インディアナポリス公演(1977年8月)

クリス・スクワイア

ジョン・アンダーソン

スティーヴ・ハウ

アラン・ホワイト

リック・ウェイクマン - 復帰

1976年、アルバム制作のリハーサルがスイスで始められた。だが、音楽性の相違や諸々の問題が表面化してモラーツが脱退し、ウェイクマンがセッション・マンとして招かれた。このセッションでの感触から、ウェイクマンは結局正式メンバーとして復帰し、レコーディングもそのままスイスで遂行された。そして、1977年7月にアルバム『究極』が発表されている。ジャケット・アートを幻想絵画ロジャー・ディーンから、シュールフォトコラージュヒプノシスへ切り替え、プロデュースをエディ・オフォードから離れてセルフ・プロデュースで行われた。教会のパイプ・オルガンのウェイクマンと、スタジオのメンバー達とを電話回線で同期してレコーディングをするという試みも行われた。「不思議なお話を(Wonderous Stories)」はシングル・カットされ、トップ10ヒットとなっている。
『トーマト』
ジョン・アンダーソン (1978年)

1978年にアルバム『トーマト』を発表。楽曲のコンパクト化をより推し進め、歌詞のテーマも身近で手軽なものを多く取り上げた作品となった。1978年はイエス結成10周年でもあり、回転する円形ステージのライブもこの頃に開始されている。
『ドラマ』


クリス・スクワイア

スティーヴ・ハウ

アラン・ホワイト

トレヴァー・ホーン(ボーカル) - 新加入

ジェフ・ダウンズ(キーボード) - 新加入

『トーマト』発表後の結成10周年記念ツアー終了後の1979年パリで始めた新作のリハーサルが頓挫し、アンダーソンとウェイクマンが脱退してしまう。ボーカルとキーボードを失ったイエスは、同じマネージメントに所属していたエレクトロ・ポップ・デュオ、バグルスをまるごと吸収した[注 9]。この編成で1980年にアルバム『ドラマ』が発表され、アメリカとヨーロッパでツアーを行なうものの、評価も観客動員も良い結果を残せなかったこともあり、ツアーを終えたイエスは活動を停止した。
ロンリー・ハート隆盛期(1980年 - 1988年)クリス・スクワイア(1978年)
活動停止(解散)期

1980年から1983年にかけて、イエスとしての具体的な活動は無かった。便宜上は「解散」という言葉を使っているが、ホワイトはそれを否定しており、「メンバーが集まらなかったので活動を停止していただけ」と主張している。

ハウによると、スクワイアとホワイトの2人はジミー・ペイジとセッション(XYZ = ex Yes Zeppelin : 元イエスと元レッド・ツェッペリンの意)を始め、ホーンはそのバンドをプロデュースしたいと言って2人に同行し、最終的にイエスに残ったのは彼とダウンズだけだったのだという。ハウはイエスの再編も考えたが、当時のマネージャー、ブライアン・レーンの助言もあってイエスを諦め、新バンド、エイジア結成へシフトしたとされる。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:112 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef