イエス・キリスト
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空になった墓を見たという記述以降は、後代の加筆であるとされている[36]。南シリアの信徒はこれより、イエスの生涯を福音的視座をもって眺めることとなる。

80年代、無名の著者はマタイによる福音書を記し[37]、死人の中からナザレのイエスが起こされたことを表明した[38]。西シリアの信徒は死人の中からナザレのイエスが起こされたという信仰を始めた。

80年代、無名の著者はルカによる福音書を記す[37]。イエスの復活信仰が確立した。

主イエス・キリスト信仰の確立

50年ころパウロはテサロニケの信徒への手紙一
を記し、イエスは主としてすぐに来臨してくることを表明した[39]。テサロニケの信徒はナザレのイエスは主イエス・キリストであるという信仰を始めた。

54年ころパウロはコリントの信徒への手紙一を記し、イエスは私たちの主なるキリストであるということを表明した[40]。コリントの信徒はイエスは私たちの主なるイエス・キリストであるというキリスト信仰を始めた。

80年代、無名の著者はマタイによる福音書を記し[37]、ナザレのイエスの父ヨセフは、アブラハムダビデの子孫であり、ヨセフの子であるナザレのイエスは預言されていたキリストであることを表明した[41]。西シリアの信徒は、イエスはヨセフの子であり、予言されていたキリストであるという信仰を始めた。

80年代、無名の著者はルカによる福音書を記す[37]

90年代、無名の著者は使徒言行録を記す[37]。ステファノが死の直前に聖霊に満たされてイエスが神の右に立っているのを見たことを表明する[42]。信徒は神の右にイエスが立っているという信仰を始めた。ユダヤ教に伝承されてきたキリストが主イエスであるという信仰が確立した。

イエスの死を通しての贖罪信仰の確立

50年ころパウロはテサロニケの信徒への手紙一
記し、来たらんとしている神の怒りからイエスが救い出してくれることを表明した[43]。テサロニケの信徒は神の怒りからイエスが救い出してくれるという信仰を始めた。

54年ころパウロはコリントの信徒への手紙一を記し、イエスは神の御子であり、イエスは私たちの罪のために死んだということを表明した[44]。コリントの信徒はイエスは神の御子であり、イエスは私たちの罪のために死んだという贖罪信仰を始めた。また、パウロはコリントの信徒への手紙一紙を記し、アダムにおいてすべての者が死ぬように、そのようにキリストにおいてもまた、すべての者が生きるようにさせられるということを表明した。コリントの信徒はイエスによってアダムの罪による自分たちの死が神の御子により蘇りに転換したという信仰を始めた[45]

80年代、無名の著者はマタイによる福音書を記し[37]、イエスはヨセフの子ではなく、聖霊によって身ごもった神の御子であることを表明した[46]。そしてかれの民をもろもろの罪から救うことを表明した[47]。西シリアの信徒はそれに倣った。また、山上の垂訓の中に主の祈りを記した[48]。これにより西シリアの信徒は 信仰の行としての毎日の祈りの中で怒りの神とは異なる父なる神の信仰を始めることとなる。信徒は個人として主なるイエス・キリストとの関係を深めることとなり、イエスの死を通しての贖罪信仰を深めることとなる。

80年代、無名の著者はルカによる福音書を記す[37]。イエスの死を通しての贖罪信仰が確立した。

終末信仰の確立

50年ころパウロはコリントの信徒への手紙一を記し、自らの
終末観を表明した[49]。この終末観は初期キリスト教の預言者の言葉である可能性大であるとされている[50]。テサロニケの信徒は下記の予測についての終末信仰を始めた。

パウロが生きているうちに主の来臨がおきる。

パウロが生きているうちに合図の声とともに主が天から下ってくる。

パウロが生きているうちにキリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえる。

パウロが生きているうちによみがえった死人や眠っていた人たちが天に上げられる。

パウロは生きたままで空中で主に会うことになり、そののちはいつも主と共にいることになる[51]

54年ころパウロはコリントの信徒への手紙一の手紙を記し、自らの終末観を表明した[52]。コリントの信徒は再臨の時までパウロが生き残ることと、不死なる体に変化する世の終わりが近づいてきているという終末信仰を始めた[53]

95年から96年ごろ著者は不明であるが、ヨハネの黙示録が著され、天にてキリストの支配がはじまったという終末観が表明される[54]。パウロの死んだ年は65年ころとされるので、それから30年くらい経過した時点での新たな予測の表明が為された。小アジアの信徒は天にてキリストの支配がはじまったという終末信仰を始めた[55]。キリスト教的な終末信仰が確立した。

イエス伝3世紀にギリシアでパピルスに書かれたルカによる福音書アイルランドダブリンチェスター・ビーティ図書館所蔵

各エピソードの詳細は、それぞれの項目を参照。
旧約聖書

旧約聖書に預言されたキリスト

イザヤ 7:14

イザヤ 9:6

イザヤ 11:1

イザヤ 53:1

エレミヤ 23:5

ミカ 5:1

ゼカリヤ 9:9  


降誕と幼少時代『イエスの神殿への奉献』(1886年 - 1894年頃の作品、ジェームズ・ティソ、en:James Tissot)

ヨセフの婚約者であったマリアは、結婚前に聖霊により身ごもった。紀元前3年9月、ツァドク暦で第7ホデシュの15日からの仮庵の祭りの頃、天使の御告によりヨセフはマリアを妻に迎え男の子が生まれ、その子をイエスと名づけた。大多数の教会では12月25日を誕生日と記念しクリスマスとして祝う。しかし、聖書の記述にはイエスの誕生日を明確に明言している箇所は1つもなく、イエスの誕生日が12月25日であるという確証はない。

かなり広く受け入れられていた説明によると、カトリックが、274年以来、12月25日をイエスの誕生と定めたのは、ローマで、太陽が一年のうちで最も長い夜に打ち勝つ日を祝っていたからであるという意見である。この説明の根拠は、降誕祭典礼と当時の教父たちが、イエス・キリストの誕生と聖書の「正義の光」(マラキア4,2)や「世の光」(ヨハネ1,4他)双方の間に、平行関係を確立させたことにある。しかし、これを証明するのは難しい上に、当時のキリスト者が異邦人の祝日をキリスト教典礼暦に採用したと考えることは、特に迫害が終ったばかりの頃だから、難しいと思われる。勿論、時が経つに連れてキリスト教の祝日が異教の祝いを吸収したと考えることはできるだろう[56]

後世のカトリック教徒が定めたからイエスの誕生日が12月25日となったとされる。


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