イアン・マッケラン
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英国のあらゆる演劇賞を受賞したマッケランは、英国における文化的な象徴と見なされている[3][4]
来歴
生い立ちエミー賞授賞式に出席したマッケランとマーガレット・チョー(1994年)

1939年にランカシャーバーンリー[5]の土木技師デニス・マーレイ・マッケランの第2子として生まれる。マッケラン家はアイルランドの出身で、祖父は説教者であり、曽祖父ジェームズ・マッケランもアントリム県の牧師だった[6]

1939年9月、第二次世界大戦直前にウィガンに移住する。マッケランは12歳まで同地で暮らし、父の昇進に伴いボルトンに移住する[7][8]。戦争の経験はマッケランに深い影響を与え、後年「平和になってようやく戦争が非日常であることを認識した」と語っている[8]。また、アメリカ同時多発テロ事件が発生した直後の取材で、マッケランが落ち着いた様子だったことを記者が指摘した際には「あなたは忘れていますよ、私が4歳まで鉄板の下で眠っていたことをね」と答えている[9]。12歳の時に母と死別し、24歳の時には父とも死別した。

マッケランはボルトン・スクール(英語版)に入学し、ボルトン・リトル・シアター(英語版)で演劇キャリアをスタートし、ボルトン・リトル・シアターは現在もマッケランのパトロンになっている[10][11]。マッケランの両親は早い時期から息子に演劇を勧め、彼が3歳の時にマンチェスター・オペラハウス(英語版)のピーター・パンの演劇を見せに行っている[7]。9歳のクリスマスの時には、ポロック玩具博物館の木製の折り畳み式のヴィクトリア劇場、シンデレラローレンス・オリヴィエハムレットの切り絵をプレゼントされた[7]

1958年に奨学金を得てケンブリッジ大学セント・キャサリン・カレッジに進学し、英文学を専攻した[12]。在学中はマーロー協会(英語版)のメンバーとして3年間で23の演劇に出演した。
俳優.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}レスター・スクウェアにあるマッケランの手形左からマッケラン、ビリー・クラダップパトリック・スチュワート(2013年)

ケンブリッジ大学卒業後の1961年に『A Man for All Seasons(英語版)』のローパー役として出演し、ベルグレード劇場(英語版)でプロとして舞台デビューし、同時期にアルゴ・レコード(英語版)のシェイクスピア・シリーズに参加している[13][14]。地域のレパートリー・シアターで4年間活動した後、ウェスト・エンド・シアターでの出演を果たした[13]。1965年にはローレンス・オリヴィエが活動拠点としていたオールド・ヴィック・シアターに出演し、1969年にはエディンバラ・フェスティバルでシェイクスピアの『リチャード二世』、クリストファー・マーロウの『エドワード二世』に出演し、特に『エドワード二世』では同性愛者であるエドワード2世の惨殺に抗議するパフォーマンスを行い話題を集めた[15]。1970年代から1980年代にかけて、マッケランは名優としての地位を確立した。この時期にはロイヤル・シェイクスピア・カンパニーロイヤル・ナショナル・シアターで頻繁に出演し、数多くの賞を受賞した[13]。1990年にはナイトに叙勲され、サーの称号を得ている[16]

舞台だけではなく映画にも活躍の場を拡げ、1981年に『Priest of Love(英語版)』のデーヴィッド・ハーバート・ローレンス役で初主演を果たした[17]。1990年代に入るとハリウッド映画にも出演して世界的な認知度を上げ、1993年の『私に近い6人の他人』では演技力の高さを絶賛された[18][19]。同年に出演した『運命の瞬間/そしてエイズは蔓延した』では、CableACE Award(英語版)の助演男優賞を受賞している[20]。1995年には『リチャード三世』でリチャード3世役として主演した[21]。元々は演出家のリチャード・エアーが手掛けてロイヤル・ナショナル・シアターで上演された作品で、同作で主演を務めたマッケランが脚本・主演として映画化したものだった[18][22]。マッケランは同作の成功により、第53回ゴールデングローブ賞ドラマ部門主演男優賞英国アカデミー賞主演男優賞脚色賞にノミネートされ、ヨーロッパ映画賞主演男優賞を受賞した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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