これによると、アーリア人には以下の狭義と広義が存在することになる。
狭義のアーリア人(諸民族に分裂する以前)
イラン・アーリア人
広義のアーリア人(現存の末裔民族も含む概念)
インド・アーリア人
狭義のアーリア人
ペルシア人
パシュトゥーン人
タジク人
北インド諸民族
最広義のアーリア人(アーリアン学説におけるアーリア人種)
インド・ヨーロッパ祖語を話していた民族と、その子孫
広義のアーリア人の内、北インド諸民族のほとんどがインド・アーリア人を祖先に持つものであり、それ以外の上述されている民族はイラン・アーリア人を祖先に持つ。ただし、北インドのアーリア系民族の中にもパールシーなどのように、イラン・アーリア人を祖先とする民族もある。パールシーはサーサーン朝のペルシア帝国滅亡後にインドに移ってきたゾロアスター教を信奉する古代ペルシア人の子孫である。
現在狭義におけるアーリア人は消滅したと考えられている。これは絶滅したという意味合いではなく、その後アーリア人たちが地理的な離散などによってより細かい集団に別れ、次第に文化や言語も分離してそれぞれが上述のインド・アーリア人やペルシア人などの独立した民族を形成(さらに古代ペルシア人からパールシーやパシュトゥーン人が分離)することにより、単独民族としてのアーリア人がいなくなったことを指す。ただし、「イラン」という国名自体ペルシア語で「アーリア人の国」を意味し、イラン最後の皇帝であるモハンマド・レザー・パフラヴィー(1979年にイラン革命による失脚で廃位)は自らの称号を「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」に定めるなど、現在もペルシア人は自らをアーリア人であると自認する者が多い。
尚、最広義のアーリア人(またはアーリア人種)という概念や呼び方は、元来は単なる学術上の仮説として想定された概念であるが、後にオカルティズムやナチズムと結びつき、人種差別や優生学を生み出した。しかしナチズムが想定していたような、ドイツ国民こそ最も純粋なアーリア人であるとする見解は現在では疑似科学だと見なされている。詳細はアーリアン学説の項を参照のこと。(インド・ヨーロッパ祖語を話していた人々に関する今日の科学的見解に関しては、インド・ヨーロッパ祖語、en:Proto-Indo-Europeans、クルガン仮説を参照)。
本項では基本的には狭義のアーリア人を取り扱い、関連として広義のアーリア人も一部記述しているが、詳細はそれぞれの民族の項を参照されたい。
本項で取り扱う狭義のアーリア人は司祭が社会的に重要な地位であった。自然現象を神々として崇拝する宗教を持っていた。
語源と名称の変化19世紀に再現されたエラトステネスの世界地図。ペルシア湾の右に ARIANA とある
英語で借用されたアーリア人 Aryan(古くはArianとも)の語源は、サンスクリット語の「アーリヤ (?rya)」とされる[3]。古代イランのアヴェスター語にはairyaがあり[4]、いずれも「高貴な」という意味で、アーリア人が自称した。また、インド・イラン祖語の*arya-か*aryo-に由来する[3][5]。古代ギリシア人のストラボンやエラトステネスがトロス山脈から東はインダス川までをアリアナ地方 (Ariana)と記録しており、その頃には地中海東部地域でも既知の民族名だったと言える。ただし、古代ローマの大プリニウスによる博物誌 6巻23章においてはAriaという古代イランのペルシア王国の統治下にあった[6]現代のアフガニスタンのヘラートに当たる地域と混同されている[7]。