ユダヤ系アメリカ人の家系に生まれ(後年、自らは生まれを意識しない国際人だと述懐している。同時に愛国心に否定的な見解も示していた。)、フィラデルフィアのテンプル大学などで音楽、美術、写真撮影技術などを学んだ。南カリフォルニア大学映画芸術学部で映画撮影技術を学び、その後は合衆国政府によるポイントフォープログラムでのイラン援助事業におけるスチールカメラマンとして就業、最終的には合衆国情報局の下で製作された、イラン、トルコ、ギリシャにおけるドキュメンタリー映画のディレクターおよび撮影カメラマンとなった。
帰国後は主にドキュメンタリー系のテレビ番組の制作に従事し、監督、撮影、編集などを手がけた。後に西部劇The Rebel(1959-61)の企画と監督も務めた。
その後は映画界へ転向し、The Luck of Ginger Coffey
などいくつかの作品を手がけ(詳細はフィルモグラフィの項を参照)、特攻サンダーボルト作戦(Raid on Entebbe)ではエミー賞9部門の候補(最優秀監督部門を含む)にノミネートされた。カーシュナーを世界的有名人に押し上げたのが本作である。
監督候補抜擢に驚いた本人がジョージ・ルーカスにそれを問いただすと、その返答は「あなたはハリウッドのディレクターが身につけておくべき知識をすべて身につけつつも、ハリウッドの人じゃないから」というものだったといい、ルーカスは彼の登場人物のキャラクター作りのセンスが気に入っていたという。当初、本人は乗り気でなかったが、マネージャーの説得もあり承諾。その際に彼は「映画の画面を人々の顔で満たしたい、これに勝る娯楽はない」と語ったという。 「帝国の逆襲」の後、カーシュナーは「ネバーセイ・ネバーアゲイン」(ショーン・コネリーのジェームズ・ボンド復帰作)HBOでの「Traveling Man」(ジョン・リスゴー、ジョナサン・シルバーマン
その後の経歴
カーシュナーは3年半に及ぶ肺がんとの闘病生活の末、2010年11月27日にロサンゼルスの自宅で死去した[5] [6][7]。彼は死の直前まで写真撮影に取り組み続けていた[8]。
フィルモグラフィ
Stakeout on Dope Street (1958)
The Young Captives
1974 - 1980年
メル・ブルックス(1974/75)
ダン・カーティス(1976)
ジョージ・ルーカス & スティーヴン・スピルバーグ(1977)
フィリップ・カウフマン(1978)
リドリー・スコット(1979)
アーヴィン・カーシュナー(1980)
1981 - 2000年
スティーヴン・スピルバーグ(1981)
ニコラス・メイヤー(1982)
ジョン・バダム(1983)
ジョー・ダンテ(1984)