1913年にオークパーク・ハイスクールに入学する。赤ん坊の頃のヘミングウェイ
1916年に初の短編小説「マニトウの裁判」を学校の雑誌に発表した。
高校卒業後の1917年10月、カンザスシティの地方紙「カンザスシティ・スター(英語版)」(英: The Kansas City Star)紙の見習い記者となるも退職。翌年、赤十字の一員として第一次世界大戦における北イタリアのフォッサルタ戦線に赴くが、その戦線で負傷兵を助けようとして自らも瀕死の重傷を負う。この時に病院で出会った7歳年上の看護婦、アグネス・フォン・クロウスキーに恋をしたが、この恋は実らずに終わった。のちにこのエピソードは『武器よさらば』のベースになっている。
戦後はカナダ・トロントにて「トロント・スター」(英: Toronto Star)紙のフリー記者をつとめ、特派員としてパリに渡りガートルード・スタインらとの知遇を得て小説を書き始めた。
パリ時代は最初の妻、ハドリー・リチャードソンと息子のバンビとアパルトマンに暮らす。当時の様子は晩年に書かれた『移動祝祭日』にてヘミングウェイ自ら回想している。シルヴィア・ビーチの営むシェイクスピア書店を利用し、エズラ・パウンドやスコット・フィッツジェラルドらの知遇を得る。
1928年に、キー・ウェストに居を移した。同年の12月に、父親が拳銃で自殺している。
1930年11月に、作家のジョン・ドス・パソスとドライブ中に、事故を起こした。
行動派の作家で、1930年代には国際旅団への参加によってスペイン内戦にも積極的に関わり、その経験を元に行動的な主人公をおいた小説をものにした。『武器よさらば』や『誰がために鐘は鳴る』などはそうした経験の賜物であり、当時のハリウッドに映画化の素材を提供した。
短編には簡潔文体の作品が多く、これらはダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラーと後に続くハードボイルド文学の原点とされている。主人公の多くはニック・アダムスというヘミングウェイの分身ともいえる青年である。
1954年、『老人と海』が大きく評価され、ノーベル文学賞を受賞。同年、二度の航空機事故に遭う。二度とも奇跡的に生還したが、重傷を負い授賞式には出られなかった。以降、これまでの売りであった肉体的な頑強さや、行動的な面を取り戻すことはなかった。水平二連散弾銃を持ったアーネスト・ヘミングウェイ。
晩年は、事故の後遺症による躁鬱など精神的な病気に悩まされるようになり、執筆活動も次第に滞りがちになっていった。1961年7月2日の早朝、散弾銃による自殺を遂げた(当初は銃の手入れの際に起きた暴発による事故死と報じられたが、後に遺書が発見されたため、自殺と断定された)。
家族
エリザベス・ハドリー・リチャードソン (1921年9月3日結婚、1927年4月4日離婚)
息子 ジャック・ハドリー・ニカノール・ヘミングウェイ (通称バンビ) (1923年10月10日 - 2000年12月1日)。「青春は川の中に フライフィッシングと父ヘミングウェイ」出版孫娘 ジョーン・ヘミングウェイ孫娘 マーゴ・ヘミングウェイ (1954年2月16日 - 1996年7月2日)。女優孫娘 マリエル・ヘミングウェイ (1961年11月22日 - )。女優
ポーリン・ファイファー (1927年5月19日結婚、1940年11月4日離婚)
息子 パトリック・ヘミングウェイ (1928年6月28日 - )孫娘 ミーナ・ヘミングウェイ息子 グレゴリー・ヘミングウェイ (1931年11月12日 - 2001年10月1日)。"Papa: A Personal Memoir" (1976) 出版。性転換してグロリアと名乗る孫 パトリック、エドワード(作家兼イラストレーター)、ショーン、ブレンダン(プログラマー)、バネッサ、マリア、ジョン(作家)、ロリアン(作家)
マーサ・ゲルホーン (1940年11月21日結婚、1945年12月21日離婚)
メアリー・ウェルシュ・ヘミングウェイ (1946年3月14日結婚)。自伝 "How It Was" (1976) 出版
ヘミングウェイの家フロリダ州キーウェストの家
ヘミングウェイは世界中の様々な場所に居を構えたが、現在アメリカのイリノイ州オークパーク、フロリダ州キーウェスト、キューバのサンチアーゴ・デ・パウラが公開されている。
オークパークのヘミングウェイ邸はヘミングウェイの生家であり、一般に公開されている。通りを挟んだすぐ近所には、ヘミングウェイ博物館が設けられている。生家の方は、母グレースの設計で建てられた、3階建ての広壮な屋敷で、ヘミングウェイが6歳の時に引っ越しているが、こちらは現在は私有地となっており、一般には公開されていない。
キーウェストの屋敷(Ernest Hemingway House)は建物自体がアーネスト・ヘミングウェイ博物館(英語版)として旅行客に公開されており、ヘミングウェイの飼っていた猫の子孫が現在でも多く住んでいる。
キューバの家はフィンカ・ビヒアとして知られており、現在では博物館として屋敷の一部が公開されている。ヘミングウェイが人生の3分の1を暮らした場所として、研究上においても重要な拠点となっている。キューバの経済的問題のため、建物自体の老朽化が進行していたが、2008年にアメリカの修復グループが改修工事を済ませ、現在では元の状況を保っている。
ヘミングウェイの猫「多指症の猫#歴史と伝承」も参照キーウェストのヘミングウェイの家の多指症のネコ。この黒猫は四肢合わせて26本の指がある
ヘミングウェイは猫好きで、知己の船長から2匹の猫を貰い受けている。この猫は近親交配の結果か足の指が6本ある多指症で、ヘミングウェイは幸運を呼ぶ猫だと信じていた。キーウェストのヘミングウェイ博物館では、この猫の直系子孫が50匹ほど今も飼われており、6本指の遺伝子を受け継いでいる。
しかし、これらの猫は、米農務省より指定の設備と動物園としての認可を受けなければ認められないと勧告され、博物館からの立ち退きを迫られていた。裁判所は博物館側の訴えを却下し、当事者同士で話し合うよう判決を下したが、博物館のあるキーウェスト市当局が、「6本指のヘミングウェイの猫たちは、歴史的かつ社会的に意義があり、観光面でも重要」と位置づけ、農務省が見做した展示物としての動物ではなく、飼い猫は1世帯につき4匹までとする条例の例外として認め、博物館側を支持。そして敷地内からネコが出て行かないためのフェンスを博物館の責任で設置することを条件に農務省側との合意に達した[1][2]。 『海流のなかの島々』の舞台ともなったバハマのビミニ島には、滞在していたとされるホテルの一室を改装したアーネスト・ヘミングウェイ博物館があり、遺品などが展示されていたが、2006年、火災により焼失した。 フローズン・スタイルのカクテルの代表格であるフローズン・ダイキリは、ヘミングウェイが愛飲したことで知られる。ヘミングウェイが好んで呑んだとされるスタイルはパパ・ダイキリと名づけられた(ヘミングウェイは、モヒートも愛飲した)。 イタリア・トリノ最古のカフェと言われているcaffe al bicerin
遺構
博物館
パパ・ダイキリ
ビチェリン
主要著作6歳(1905年)軍服姿のアーネスト
(1918年)妻ポーリンとともに(1927年、パリ)キューバにて(1950年)翻訳は入手しやすいものを中心に紹介する。また、三笠書房の「ヘミングウェイ全集」には出版時期により収録巻が異なる複数のバージョンがある。
長編小説
『春の奔流』"The Torrents of Spring", 1926年
中田耕治訳(旧河出文庫)、高村勝治訳(「ヘミングウェイ全集」三笠書房)、以下略記
『日はまた昇る』"The Sun Also Rises", 1926年
高見浩訳(新潮文庫、2003年)、土屋政雄訳(ハヤカワ文庫)、佐伯彰一訳(集英社文庫)、谷口陸男訳(岩波文庫)、高村勝治訳(「全集」三笠書房)