アーネスト・シャクルトン
[Wikipedia|▼Menu]
その選択肢は、シャクルトン家に余裕は無かったが、「HMS ブリタニア(英語版)」の海軍士官候補生になる、または商船員訓練船の「ウォースター(英語版)(Worcester)」か「コンウェイ(英語版)(Conway)」に乗る、もしくは帆船の「水夫(before the mast)」見習いになることで、3番目の選択肢が選ばれた[12]。父親がノース・ウエスタン・シッピング・カンパニー(North Western Shipping Company)への就職を見つけてきて、シャクルトンはスクエア・リグ(英語版)の帆船「ホートン・タワー(Hoghton Tower)」の船員となった[12]

続く4年間の船員生活で、シャクルトンは地球の隅々を訪れ、多くの階級の人々と人脈と作り、あらゆる種類の人間についてよく学びながら、手に職を付けた[13]。1894年8月、2級航海士(英語版)の試験に合格し、ウエルシュ・シャイア・ライン(Welsh Shire Line)の不定期貨物船(英語版)で三等航海士となる[13]。2年後、1級航海士(英語版)の資格を獲得、1898年には世界中どこでもイギリス船を指揮できるマスター・マリナー(英語版)として認証された[13]

1898年、シャクルトンは、サウサンプトンケープタウン間で郵便および旅客輸送の定期便を運航するユニオン=キャッスル・ラインに入社した。彼は「普通の若い航海士とはかけ離れていて」、必ずしも打ち解けていないとは言わないが会社に満足し、「キーツやブロウニングの詩を朗読し」、感受性と攻撃性が入り混じっているが思いやりもあった、と同僚が書き残している[14]。1899年に第二次ボーア戦争が勃発すると、シャクルトンは兵員輸送船「ティンタジェル・キャッスル(Tintagel Castle)」へ転属となり、同船で1900年3月に、ロンドンで組織中のディスカバリー遠征のメインスポンサーであるルーエリン・W・ロングスタッフ(英語版)の息子、セドリック・ロングスタッフ(Cedric Longstaff)陸軍中尉と知り合った[15]。シャクルトンは遠征隊へ参加するため、息子との知己を活かしてロングスタッフの面接を受けた。ロングスタッフはシャクルトンの熱心さに感動して、シャクルトンが合格することを望んでいることが明らかである遠征隊の責任者、クレメンツ・マーカムへ推薦した[15]。1901年2月17日、シャクルトンは遠征隊の船「ディスカバリー号」の3等航海士へ登用され、7月4日、海軍予備員の海軍中尉(英語版)に任官した[16][17]。公式にはユニオン=キャッスル社から休暇を貰った形であったが、実際にはシャクルトンの商船員生活はここで終わりを告げた[15]
1901-03年、「ディスカバリー遠征」詳細は「ディスカバリー遠征」を参照南極海上の探検船「ディスカバリー号」

「ディスカバリー号(英語版)」にちなみディスカバリー遠征として知られる国立南極遠征(National Antarctic Expedition)は、王立地理学会会長のサー・クレメンツ・マーカムが発案し、準備に長年かけていたものである。遠征隊はイギリス海軍の水雷大尉で最近中佐へ昇格したロバート・ファルコン・スコットが隊長となり、科学や地理学上の発見も目的としていた[18]

ディスカバリー号は海軍の船ではなかったが、スコットは艦隊訓練法(Naval Discipline Act)に基づく制約を受け入れる船員や士官、科学スタッフを求め、船と遠征隊は海軍の方針に従って運営された。シャクルトンは、彼の生い立ちや天性から、それとは違うもっと堅苦しくない統率を好んでいたにもかかわらず、これを受け入れた[19]。シャクルトンの任務は以下の通りであった。「海水分析担当。上級士官室のサービス係。船倉、備品、食糧担当。(中略)そのほか、娯楽を企画する。」[20]

「ディスカバリー号」は1901年7月31日にロンドンを出発し、ケープタウンニュージーランドを経て、1902年1月8日に南極大陸に到着した。上陸後、シャクルトンは2月4日に観測気球飛行に加わった[21]。また、科学者のエドワード・エイドリアン・ウィルソン(英語版)とハートレー・フェラー(英語版)とともに、マクマード湾(英語版)にある遠征隊の冬営地からロス棚氷への安全なルートを確立する最初のソリ旅行に参加した[22]。1902年の冬には、氷に閉ざされたディスカバリー号で、シャクルトンは遠征隊の雑誌『The South Polar Times(英語版)』の編集を行った[23]

スコットのリーダーシップに対し水面下で対抗することを示していたという主張は支持されなかったが、給仕のクラレンス・ハレ(英語版)によると、シャクルトンは「船員の間で最も人気がある士官で、付き合いが良かった」[24]。スコットは南極点の方向へ最南端到達記録の更新を目指すパーティに自分自身とウィルソンのほかにシャクルトンを加えた。スコットにとって最南端記録の更新はとても重要であったが、この踏破行は南極点を目指す真剣な挑戦ではなかった。そしてシャクルトンを加えたことは高い個人的な信頼を表していた[25][26]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:240 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef