アーサー・コナン・ドイル
[Wikipedia|▼Menu]
1912年にはチャレンジャー教授シリーズの第1作である『失われた世界』、その翌年には第2作『毒ガス帯』を発表し、SF小説にも進出した(→チャレンジャー教授の創造と大戦前の動向)。

1914年第一次世界大戦が勃発すると政府や軍部の戦争遂行を全力で支援した。戦意高揚のための執筆活動や、各前線を回って士気を鼓舞する演説を行うことに努めた(→第一次世界大戦をめぐって)。

一次大戦前から心霊主義に関心を持っていたが、戦中の相次ぐ身内の戦死・病死により、戦後には心霊主義への傾斜をいっそう強めた。晩年の活動はほぼすべて心霊主義活動に捧げられた。1925年にはチャレンジャー教授が心霊主義に目覚める『霧の国』を発表した(→心霊主義心霊主義活動の本格化)。

1930年7月7日に死去した(→死去)。

さまざまな分野の執筆を行ったが、推理小説シャーロック・ホームズシリーズの名声がもっとも高く、この作品を通じて後世の推理物のさまざまな原型を築いた(→評価)。政治思想面では、中世騎士道を基礎として、国家主義帝国主義反共主義婦人参政権反対、離婚法改正賛成などの立場をとった(→政治思想)。クリケットをはじめとしてさまざまなスポーツに打ち込むスポーツマンでもあった(→スポーツマン)。先妻はルイーズ、後妻はジーン。先妻との間には1男1女、後妻との間には2男1女を儲けた(→家族)。
生涯
出生と出自

1859年5月22日スコットランド労務局測量士補チャールズ・ドイル(英語版)とその妻メアリー(旧姓フォーリー)の長男として、スコットランド・エディンバラのピカーディ・プレイス(picardy place)11番地に生まれる[1]

チャールズ、メアリー夫妻の子供は全部で9人(無事育ったのは7人)で、うちアーサーと姉アネットは、大伯父にあたる美術批評家マイケル・コナンから「コナン」の姓をもらい、「コナン・ドイル」という複合姓になった[11][12]

父方のドイル家は14世紀フランスからアイルランドへ移民したノルマン人の家系だった。敬虔なカトリックの一族だったため迫害を受けることが多かったという[13][14]

ドイル家が世間の注目を集めるようになったのは、アーサーの祖父であるジョン・ドイルダブリンからロンドンに出てきて、H.B. の筆名で著名な風刺画家となってからだった[13]。ジョンの長男ジェームズ(英語版)は画家、次男リチャードイラストレーター、三男ヘンリー(英語版)はアイルランド国立美術館館長としてそれぞれ成功を収めた。しかし五男であるチャールズ(アーサーの父)だけは一介の測量技師補から出世せず、しかもアルコール依存症だったため、1876年にはその仕事も失い、療養所(のちに精神病院)へ入れられた。そのため幼少期・青年期のアーサーは貧しい環境の中で育ったという[15][16]

母方のフォーリー家もフランスからアイルランドへ移住したカトリックであり、系図をさかのぼるとフランスから渡来した英国王室プランタジネット朝につながるという。母はそのことを常に誇りにしていたという[17][18]
学生時代シャーロック・ホームズのモデルであるエジンバラ大学医学部教授ジョセフ・ベル

裕福な伯父の支援で1868年にイングランド・ランカシャーにあるイエズス会系の寄宿学校ホダー学院に入学。1870年にはその上級学校であるストーニーハースト・カレッジ(英語版)に進学し、同校で5年間学んだ[19]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:257 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef