アーサー・ウェルズリー_(初代ウェリントン公爵)
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1787年イギリス陸軍に入隊(→初期の軍歴 (1787年-1793年))。1794年にはフランス革命戦争ベルギーオランダ戦線でイギリス軍の退却作戦を支援して活躍した。これが初めての実戦経験となった(→フランス革命戦争での初陣 (1794年-1795年))。

1796年イギリス東インド会社が支配するインドへ派遣され、同じ頃にインド総督となった兄ウェルズリー侯爵のもと、インド征服戦争の指揮を執った。1799年マイソール王国侵攻(第四次マイソール戦争)、1803年の対マラータ同盟戦争(第二次マラータ戦争)などで戦功をあげた(→インド征服戦争 (1796年-1805年))。

1805年にイギリスに帰国し、1806年4月にはキャサリン・パクナム(英語版)と結婚、またトーリー党候補として庶民院議員選挙に出馬して当選し、政界進出を果たした。1807年にはポートランド公爵内閣にアイルランド担当大臣(英語版)として入閣している(→帰国・政界進出 (1805年-1808年))。

イベリア半島において半島戦争が勃発すると、ナポレオンに抵抗するスペインポルトガルの民衆を支援すべく、1808年7月にイギリス軍を率いてポルトガルに上陸し、8月にもヴィメイロの戦い(英語版)でフランスのポルトガル遠征軍を撃破した(→仏軍のイベリア半島自主撤退まで (1808年))。

こののち一旦帰国するが、入れ替わりにナポレオン本隊が半島に侵攻してスペイン全土を制圧、再びポルトガルに侵攻してきた。これを受けて1809年4月にポルトガル駐留英軍の総司令官として再度半島に派遣され、5月のドウロの戦い(英語版)でフランス軍をスペインに押し戻す。さらに7月にはタラベラの戦い(英語版)で勝利し、この戦功で「ウェリントン・オブ・タラベラ子爵」の爵位を与えられ、貴族に列した。1810年5月からのフランス軍のポルトガル再侵入もトレス・ヴェドラス線(英語版)を作らせておいたのが功を奏し、1811年3月までにスペインに追い返すことができた(→仏軍のポルトガル再侵攻を撃退 (1808年-1811年))。

同年5月からスペイン・ポルトガル国境地帯の要塞の攻略を目指し、1812年3月から4月にかけてのバダホスの戦い(英語版)の勝利でそれを達成した。その戦功で「ウェリントン伯爵」に叙される(→スペイン・ポルトガル国境の争奪戦 (1811年-1812年))。同年6月よりスペイン侵攻を開始し、7月にサラマンカの戦いでフランス軍を撃破したことで、8月にはマドリード占領に成功した。この功績でウェリントン侯爵に叙された。しかしこの後ブルゴス攻略に失敗し、さらにフランス軍がマドリードに接近してきたため、全軍をポルトガルまで後退させた(→スペイン進撃 (1812年-1813年))。ポルトガルで越冬した後、1813年5月からスペイン再侵攻を開始し、6月のビトリアの戦いでスペイン王ジョゼフ・ボナパルト率いるフランス軍を撃破した。この戦いで半島戦争のイギリス軍の優位は決定的となった。この戦功により元帥に昇進した(→スペイン再進撃 (1813年))。

ロシア遠征失敗などでナポレオンが四面楚歌に陥ったのを受けて、1813年10月よりスペイン・フランス国境を越えてフランス領侵攻を開始した。1814年4月にトゥールーズを攻略したところでナポレオンの退位の報に接した。これまでの戦功を労われて「ウェリントン公爵」に叙された。同年6月にイギリスに凱旋帰国。その際国民の熱狂的な歓迎を受け、その名声を不動のものにした。同年7月にはフランス駐在イギリス大使に就任、さらに翌1815年にはウィーン会議カスルリー子爵外相が途中帰国した後の英国の全権代理を務めた(→ナポレオン最初の失脚から復権まで (1813年-1815年))。

ついでナポレオンがエルバ島を脱出してパリに復帰すると、これを迎え撃つべくブリュッセルに急行する。1815年6月18日のワーテルローの戦いではブリュッヘル元帥率いるプロイセン軍と協力してナポレオン撃破に決定的な役割を果たし、その野望を最終的に打ち砕くに至った(→ワーテルローの戦い (1815年))。ナポレオン戦争後はフランス占領軍総司令官を務め、敗戦国に寛大な占領統治を行った。占領軍の撤収が完了した後の1818年12月にイギリスに帰国した(→フランス占領軍総司令官 (1815年-1818年))。

帰国後は主に政界で活躍する。1819年リヴァプール伯爵内閣の補給庁長官(英語版)に就任し、1827年2月まで在職する。1827年1月には軍職の陸軍総司令官(英語版)にも就任している。しかし保守的なウェリントン公爵は、閣内でジョージ・カニング自由主義派閣僚と対立を深めており、1827年2月にリヴァプール伯爵が首相を辞職し、カニングがその後任となった際にカトリック解放の方針に反発して辞職することとなった(→リヴァプール伯爵内閣補給庁長官 (1818年-1827年))。

カニングの急死、続くゴドリッチ子爵内閣と国王ジョージ4世の対立により、1828年1月にはウェリントン公爵に大命降下があった(→首相就任までの経緯 (1827年-1828年))。カトリック問題を棚上げすることでカニング派の入閣を取り付けて第1次ウェリントン公爵内閣(英語版)の組閣に成功した。しかし自由主義的なカニング派と意見が合わず、1828年5月から6月にかけてカニング派閣僚に集団辞職された。もともとカトリック解放に慎重だったウェリントン公爵だが、頑迷ではなく、アイルランド・カトリックが議員に当選するという情勢の変化に応じて、1829年4月にはカトリック解放法案を可決させた。しかしこれにより党内の亀裂が深まり内閣の基盤は弱くなった。選挙法改正の機運が高まる中、野党の団結は進み、1830年11月にウェリントン公爵内閣は議会で敗北を喫し、総辞職を余儀なくされた。これによって半世紀ぶりのホイッグ党への政権交代が起こった(→第1次ウェリントン公爵内閣 (1828年-1830年))。

ホイッグ政権の間も野党トーリー党(1834年頃から保守党と改名)を党首として指導したが、同党庶民院院内総務(英語版)サー・ロバート・ピール准男爵に党の実務を委ねることが多くなっていった。ホイッグ党政権が推し進める第一次選挙法改正を阻止しようとしたが、失敗している(→野党党首として (1830年-1834年))。


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