1796年にイギリス東インド会社が支配するインドへ派遣され、同じ頃にインド総督となった兄ウェルズリー侯爵のもと、インド征服戦争の指揮を執った。1799年のマイソール王国侵攻(第四次マイソール戦争)、1803年の対マラータ同盟戦争(第二次マラータ戦争)などで戦功をあげた(→インド征服戦争 (1796年-1805年))。
1805年にイギリスに帰国し、1806年4月にはキャサリン・パクナム(英語版)と結婚、またトーリー党候補として庶民院議員選挙に出馬して当選し、政界進出を果たした。1807年にはポートランド公爵内閣にアイルランド担当大臣(英語版)として入閣している(→帰国・政界進出 (1805年-1808年))。
イベリア半島において半島戦争が勃発すると、ナポレオンに抵抗するスペイン・ポルトガルの民衆を支援すべく、1808年7月にイギリス軍を率いてポルトガルに上陸し、8月にもヴィメイロの戦い(英語版)でフランスのポルトガル遠征軍を撃破した(→仏軍のイベリア半島自主撤退まで (1808年))。
こののち一旦帰国するが、入れ替わりにナポレオン本隊が半島に侵攻してスペイン全土を制圧、再びポルトガルに侵攻してきた。これを受けて1809年4月にポルトガル駐留英軍の総司令官として再度半島に派遣され、5月のドウロの戦い(英語版)でフランス軍をスペインに押し戻す。さらに7月にはタラベラの戦い(英語版)で勝利し、この戦功で「ウェリントン・オブ・タラベラ子爵」の爵位を与えられ、貴族に列した。1810年5月からのフランス軍のポルトガル再侵入もトレス・ヴェドラス線(英語版)を作らせておいたのが功を奏し、1811年3月までにスペインに追い返すことができた(→仏軍のポルトガル再侵攻を撃退 (1808年-1811年))。
同年5月からスペイン・ポルトガル国境地帯の要塞の攻略を目指し、1812年3月から4月にかけてのバダホスの戦い(英語版)の勝利でそれを達成した。その戦功で「ウェリントン伯爵」に叙される(→スペイン・ポルトガル国境の争奪戦 (1811年-1812年))。同年6月よりスペイン侵攻を開始し、7月にサラマンカの戦いでフランス軍を撃破したことで、8月にはマドリード占領に成功した。この功績でウェリントン侯爵に叙された。しかしこの後ブルゴス攻略に失敗し、さらにフランス軍がマドリードに接近してきたため、全軍をポルトガルまで後退させた(→スペイン進撃 (1812年-1813年))。ポルトガルで越冬した後、1813年5月からスペイン再侵攻を開始し、6月のビトリアの戦いでスペイン王ジョゼフ・ボナパルト率いるフランス軍を撃破した。この戦いで半島戦争のイギリス軍の優位は決定的となった。この戦功により元帥に昇進した(→スペイン再進撃 (1813年))。
ロシア遠征失敗などでナポレオンが四面楚歌に陥ったのを受けて、1813年10月よりスペイン・フランス国境を越えてフランス領侵攻を開始した。1814年4月にトゥールーズを攻略したところでナポレオンの退位の報に接した。これまでの戦功を労われて「ウェリントン公爵」に叙された。同年6月にイギリスに凱旋帰国。その際国民の熱狂的な歓迎を受け、その名声を不動のものにした。同年7月にはフランス駐在イギリス大使に就任、さらに翌1815年にはウィーン会議でカスルリー子爵外相が途中帰国した後の英国の全権代理を務めた(→ナポレオン最初の失脚から復権まで (1813年-1815年))。
ついでナポレオンがエルバ島を脱出してパリに復帰すると、これを迎え撃つべくブリュッセルに急行する。