アーカンソー州
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アーカンソー州(アーカンソーしゅう、: State of Arkansas [??rk?ns??] ( 音声ファイル))は、アメリカ合衆国南部[1]。アメリカ合衆国50州の中で、陸地面積では第29位、人口では第33位である。州の北はミズーリ州に接し、東はテネシー州ミシシッピ州に、西はオクラホマ州テキサス州に、南はルイジアナ州に接している。略称Ark.,AR。州都かつ人口最大の都市は、州中央部に位置するリトルロック市である。前身のアーカンソー準州から1836年6月15日に合衆国25番目の州に昇格した[2]

地形的にはアメリカ内陸高原を構成するオザーク高原やワシタ山地 (Ouachita Mountains) のある山岳地から、東部のミシシッピ川やアーカンソー・デルタのある低地まで多様である。

家庭で話される言語(アーカンソー州) 2010[3]

英語  93.39%
スペイン語  4.82%

人種構成(アーカンソー州) 2010

白人  74.5%
黒人  15.4%
ヒスパニック  6.4%
アジア系  1.2%
インディアン  0.8%
混血  2.0%

州名の由来

「アーカンソー」という名前はカンザス州と語源を同じくする。カンザ族 (コー族) インディアングレートプレーンズスー族と密接な関係がある。カンザ族と近縁のクアポー族 (Quapaw) の言葉で「下流の人々の土地」を意味する「アカカズ」(akakaze)、あるいはスー族の言葉で「南風の人々」を意味する「アカカズ」(akakaze)をフランス語風に発音したのがアーカンソー("Arcansas")である。なお、この語末の「a+子音字」は標準フランス語では[a]と発音するため、これを[??]と発音するのはケベック・フランス語など北アメリカのフランス語の特徴といえる。アーカンソーの発音については、州選出の2人のアメリカ合衆国上院議員の間で、片方が「アーカンザス」([??r?kanz?s] ar-KAN-z?s)を主張したのに対し、もう一方が「アーカンソー」([???rk?ns??] AR-k?n-saw)を主張するという論争があった(太字に第一強勢アクセント)[注釈 1]。そして1881年の州議会立法で公式に「アーカンソー」と決められた。

開拓初期にクマが多く棲息していたため「クマの州 Bear State」という愛称がある。[4]
歴史詳細は「アーカンソー州の歴史」を参照

アーカンソー州となった地域を最初に訪れたヨーロッパ人は、フランシスコ・ピサロペルーを征服した時の軍人であるスペイン人探検家エルナンド・デ・ソトであり、金と中国への道を探してほぼ1年間アーカンソー南部を探索した後、1542年にミシシッピ川沿いの現在の (レイクビレッジ) 近くで死んだ。スペイン人あるいはフランス人の探検家が、ミシシッピ川の下流に住んでいたクアポー族インディアンをイリノイ族 (Illinois Confederation) が呼んでいた言葉から音を借りて、アーカンソーという名前を付けた[5]。アーカンソー地域に住んでいたインディアン部族としては、クアポー族、カド族、オーセージ族 (Osage Nation) などがいた。彼等が西方に強制移住させられた後は、文明化五部族が入ってきた。

アーカンソーは、1803年にアメリカ合衆国がナポレオン・ボナパルトから買収したルイジアナ領土の一部だった。1819年7月4日にアーカンソー準州となり、1836年に合衆国25番目の州、13番目の奴隷州として州昇格を認められた。農園経営者がアーカンソー・デルタに入って綿花を栽培し、アフリカ人奴隷が最も多い地域となった。他の地域は自作農が多く、作物も多種にわたった。

アーカンソーは、テキサスがメキシコからの独立を果たした戦争で、部隊や物資を送って重要な役割を果たした。州内 (ワシントン市) はテキサス国境に近く、1835年から1836年のテキサス革命に巻き込まれた。1834年サミュエル・ヒューストンやその同調者が、ワシントン市の酒場で革命の計画を練ったという証拠もある。戦争が始まると、アーカンソー州など南東部州の志願兵がこの町を通ってテキサスの戦場に向かった。

1846年に米墨戦争が始まると、ワシントンは志願兵の集合地点になった。州知事のトマス・S・ドルー (Thomas Stevenson Drew) は州内で騎兵1個連隊と砲兵1個大隊を立ち上げ、アメリカ陸軍に加えるという声明を発した。10個中隊が纏められ、アーカンソー騎兵第1連隊に繰り入れられた。

ミシシッピ・デルタの東部では綿花文化が発展し、農園主が連れてくるか、アッパーサウスの諸州から輸入した奴隷を大々的に使っていた。南北戦争開戦前の1860年、州内には111,115人の奴隷がおり、州人口の25%を超えていた[6]

1861年初期、湾岸の州は揃って合衆国から脱退したが、アーカンソー州が脱退したのは、サムター要塞の戦いに続いてエイブラハム・リンカーン大統領が軍隊招集を呼びかけた後になってから、1861年5月6日だった。大規模会戦が続いた東部戦線とは異なり、アーカンソー州内では多くの小競り合いや小規模戦闘があった。当時注目されたのは南軍のパトリック・クリバーン少将だった。多くの者が南軍師団長の中でも最も傑出した将軍と見なし、「西のストーンウォール」と呼ばれることも多かった。元連邦議会議員だったトマス・ハインドマン少将が、州北西部で起きたケインヒルの戦い (Battle of Cane Hill) とプレーリーグローブの戦いで南軍を指揮した。

軍政の布かれたレコンストラクション時代、連邦議会は1868年6月にアーカンソー州の連邦復帰を宣言した。共和党が支配した州議会では、男性の普通選挙(ただし南軍協力者、その大半は民主党員は選挙権を剥奪された)や公共教育制度を導入し、州内の問題を解決し人口を増やすための方策を定めた。州議会は急進派共和党(北部から入って来た政治家たちで、汚職を噂されたため「カーペットバッガー」と呼ばれた)の圧倒的支配下に入り、パウェル・クレイトン (Powell Clayton) 知事の下で、共和党民兵とクー・クラックス・クランとの間の暴動と人種間暴力の時代を過ごした。

1874年、2年前の州知事選のもつれから共和党の派閥間での政争であるブルックス・バクスター戦争 (Brooks?Baxter War) が起こり、リトルロックや州政府を揺り動かした。これはユリシーズ・グラント大統領が州知事候補の一人だったジョセフ・ブルックス (Joseph Brooks (politician)) にその軍事的支持者を解散させるよう命じてやっと解決された[7]。その後新州憲法が批准され、元南軍協力者の選挙権が回復された。

1881年の州議会立法で公式に「アーカンソー」という発音が決定され、続いていた州名の発音にまつわる論争にケリを付けた。

レコンストラクション後、州内には国内外からの移民が増加するようになった。中国人イタリア人シリア人などが発展するデルタ地帯の農場労働力として導入された。しかし長く農場労働者として留まる者はいなかった。特に中国人は直ぐにデルタ周辺の町の小商人になった。20世紀初期に入ってきたのは東ヨーロッパからの移民がいた。デルタ周辺は他の地域よりも民族分布的に多様になった。同じころに黒人の移民も入ってきており、低湿地を開発し自らの資産を持つ機会を得ようとしていた。多くの中国人は小さな町の商人として成功し、その子弟を大学で学ばせるようになった[8]小作農の妻と子供達、ワシントン郡、1935年ごろ


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