アーカンソー州
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アーカンソー州となった地域を最初に訪れたヨーロッパ人は、フランシスコ・ピサロペルーを征服した時の軍人であるスペイン人探検家エルナンド・デ・ソトであり、金と中国への道を探してほぼ1年間アーカンソー南部を探索した後、1542年にミシシッピ川沿いの現在の (レイクビレッジ) 近くで死んだ。スペイン人あるいはフランス人の探検家が、ミシシッピ川の下流に住んでいたクアポー族インディアンをイリノイ族 (Illinois Confederation) が呼んでいた言葉から音を借りて、アーカンソーという名前を付けた[5]。アーカンソー地域に住んでいたインディアン部族としては、クアポー族、カド族、オーセージ族 (Osage Nation) などがいた。彼等が西方に強制移住させられた後は、文明化五部族が入ってきた。

アーカンソーは、1803年にアメリカ合衆国がナポレオン・ボナパルトから買収したルイジアナ領土の一部だった。1819年7月4日にアーカンソー準州となり、1836年に合衆国25番目の州、13番目の奴隷州として州昇格を認められた。農園経営者がアーカンソー・デルタに入って綿花を栽培し、アフリカ人奴隷が最も多い地域となった。他の地域は自作農が多く、作物も多種にわたった。

アーカンソーは、テキサスがメキシコからの独立を果たした戦争で、部隊や物資を送って重要な役割を果たした。州内 (ワシントン市) はテキサス国境に近く、1835年から1836年のテキサス革命に巻き込まれた。1834年サミュエル・ヒューストンやその同調者が、ワシントン市の酒場で革命の計画を練ったという証拠もある。戦争が始まると、アーカンソー州など南東部州の志願兵がこの町を通ってテキサスの戦場に向かった。

1846年に米墨戦争が始まると、ワシントンは志願兵の集合地点になった。州知事のトマス・S・ドルー (Thomas Stevenson Drew) は州内で騎兵1個連隊と砲兵1個大隊を立ち上げ、アメリカ陸軍に加えるという声明を発した。10個中隊が纏められ、アーカンソー騎兵第1連隊に繰り入れられた。

ミシシッピ・デルタの東部では綿花文化が発展し、農園主が連れてくるか、アッパーサウスの諸州から輸入した奴隷を大々的に使っていた。南北戦争開戦前の1860年、州内には111,115人の奴隷がおり、州人口の25%を超えていた[6]

1861年初期、湾岸の州は揃って合衆国から脱退したが、アーカンソー州が脱退したのは、サムター要塞の戦いに続いてエイブラハム・リンカーン大統領が軍隊招集を呼びかけた後になってから、1861年5月6日だった。大規模会戦が続いた東部戦線とは異なり、アーカンソー州内では多くの小競り合いや小規模戦闘があった。当時注目されたのは南軍のパトリック・クリバーン少将だった。多くの者が南軍師団長の中でも最も傑出した将軍と見なし、「西のストーンウォール」と呼ばれることも多かった。元連邦議会議員だったトマス・ハインドマン少将が、州北西部で起きたケインヒルの戦い (Battle of Cane Hill) とプレーリーグローブの戦いで南軍を指揮した。

軍政の布かれたレコンストラクション時代、連邦議会は1868年6月にアーカンソー州の連邦復帰を宣言した。共和党が支配した州議会では、男性の普通選挙(ただし南軍協力者、その大半は民主党員は選挙権を剥奪された)や公共教育制度を導入し、州内の問題を解決し人口を増やすための方策を定めた。州議会は急進派共和党(北部から入って来た政治家たちで、汚職を噂されたため「カーペットバッガー」と呼ばれた)の圧倒的支配下に入り、パウェル・クレイトン (Powell Clayton) 知事の下で、共和党民兵とクー・クラックス・クランとの間の暴動と人種間暴力の時代を過ごした。

1874年、2年前の州知事選のもつれから共和党の派閥間での政争であるブルックス・バクスター戦争 (Brooks?Baxter War) が起こり、リトルロックや州政府を揺り動かした。これはユリシーズ・グラント大統領が州知事候補の一人だったジョセフ・ブルックス (Joseph Brooks (politician)) にその軍事的支持者を解散させるよう命じてやっと解決された[7]。その後新州憲法が批准され、元南軍協力者の選挙権が回復された。

1881年の州議会立法で公式に「アーカンソー」という発音が決定され、続いていた州名の発音にまつわる論争にケリを付けた。

レコンストラクション後、州内には国内外からの移民が増加するようになった。中国人イタリア人シリア人などが発展するデルタ地帯の農場労働力として導入された。しかし長く農場労働者として留まる者はいなかった。特に中国人は直ぐにデルタ周辺の町の小商人になった。20世紀初期に入ってきたのは東ヨーロッパからの移民がいた。デルタ周辺は他の地域よりも民族分布的に多様になった。同じころに黒人の移民も入ってきており、低湿地を開発し自らの資産を持つ機会を得ようとしていた。多くの中国人は小さな町の商人として成功し、その子弟を大学で学ばせるようになった[8]小作農の妻と子供達、ワシントン郡、1935年ごろ

鉄道の開通は、より多くの農民が作物を市場に送ることを可能にした。またリゾート地として開発されたオザーク高原など、農村地帯以外の発展にもつながった。例えば、19世紀の末ごろ、キャロル郡ユリーカスプリングスは急速に観光地として成長し、人口1万人と州内第4の都市となった。健康に良いと考えられた天然泉周辺に優美なリゾートホテルや温泉が新築された。この町の呼び物には競馬など娯楽もあった。この町は様々な階層に受け、州内ホットスプリングスと同じくらいの人気が出た。

1880年代後半、農業の景気が悪化してポピュリストなど第三政党が生まれ、異人種間の連衡に繋がった。南部の他州と同様、民主党は権力を保持するために議会立法や憲法の修正を行い、黒人や白人低所得層の選挙権を剥奪した。民主党は彼等の連携を阻止しようとした。1891年、黒人や白人低所得層が排除されることを期待して、議会は識字能力テストを求める法を成立させた。このころ人口の25%以上が読み書きできなかった。1892年、州憲法を改正して、有権者登録税とさらに複雑な住民資格を定め、貧民や小作農などを選挙から閉め出した。

1900年、民主党は郡と州の選挙で白人予備選挙 (White primaries) を拡大し、黒人が政治に関わることを否定した。予備選挙で黒人が候補者になれたとしても、民主党が権力の全てを掌握した。数十年間も民主党一党独裁が継続したが、1964年の公民権法と1965年の選挙権法成立で、その時代が終わった。

1905年から1911年にかけて、ドイツ人スロバキア人アイルランド人移民が少数ながら入ってくるようになった。ドイツ人とスロバキア人はプレーリーと呼ばれた州東部に入り、アイルランド人移民は南東部に小さな地域社会を作った。ドイツ人は大半がルーテル教会員であり、スロバキア人はカトリック教徒だった。アイルランド人はアルスタープロテスタントが多かった。

1954年、「ブラウン対トピカ教育委員会事件」に対するアメリカ合衆国最高裁判所判決が出た後、州都リトルロックで高校での人種差別撤廃を求めたアフリカ系アメリカ人生徒を保護するために連邦政府が干渉した、いわゆるリトルロック・ナインが全国の注目を集めさせた。オーバル・フォーバス州知事は州軍に命じて、9人のアフリカ系アメリカ人生徒がリトルロック中央高校に入るのを阻止する人種分離主義者を助けるよう仕向けた。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領はフォーバス州知事と3度接触を試みた後、現役任務の第101空挺師団から1,000名を派遣して、9人の生徒が1957年9月25日に高校に入学するのを護衛するよう命じた。合衆国裁判所が人種統合を行うよう命令を出したことに対抗して、知事とリトルロック市は、その学校年の残り期間高校を閉鎖することを決めた。1959年秋までにリトルロック市の高校は完全に人種差別を撤廃した[9]リトルロック高校事件)。

1992年民主党ビル・クリントンがこの州出身者として初めて大統領に選出された。クリントンは州内ホープ市の生まれであり、第40代および第42代州知事を合計12年間務めていた。
地理

参照:アーカンソー州の郡一覧プティジャン州立公園のプティジャン山からの眺めマギーヒー近くアーカンソー・デルタの平坦な地形ワシタ国有林を流れるワシタ川ストーン郡にあるブランチャード・スプリングス洞窟バッファロー国立河川ワシタ山地のフラットサイド原生地


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