本作では性的な表現が目立つが、快楽主義を称揚するアンダーグラウンド・コミックスのように享楽的な描き方ではない[12]。そのような作風は熟年の実業家でもあるアイズナーの生き方にそぐわなかった。卑猥な言葉も作中では使われない[11]。評論家ジョシュ・ランバートによると、本作の性は「性欲を刺激するのではなく、不安を呼び起こすイメージ」として描かれており、その後に残されるのは「苦痛、失意、罪悪感」である[13]。 信仰心の篤いハシド派ユダヤ人の少年フリム・ハーシュは[注釈 1]、ロシアにある故郷の村からただ一人選ばれ、迫害を逃れるためアメリカに送られる。ハーシュは神との契約を石板に彫りつけて生涯善行を積むと誓い、それによって人生が成就すると信じた。移民したニューヨークではドロプシー・アベニュー55番地にある共同住宅に住み、敬虔な信徒として簡素な暮らしをおくる。あるとき自宅の戸口に乳児が棄てられているのを見つけると、その子レイチェルを養女とする。しかしレイチェルは幼くして病で死ぬ。ハーシュは神に激しい怒りをぶつけ、契約を破ったと非難する。信仰を捨て、禁じられていた髭剃り
"A Contract with God" (神との契約)
アイズナーは本作の執筆を「個人的な苦痛についての訓練」と呼んだ[16]。彼は8年前に16歳の娘アリスが白血病で死んだことへの悲嘆と怒りを持ち続けていた[17]。初期のスケッチではハーシュの養女はアリスと名付けられており[10]、アイズナー自身の苦痛がハーシュを通して表現されていた。アイズナーはこう述べている。「[ハーシュが行った] 神との論判は私自身のものだ。私の信仰を踏みにじり、16歳の愛娘から花開いたばかりの命を奪っていった一人の神への激しい怒りを吐き出したんだ」[16] 年老いたオペラ歌手マルタ・マリアは、共同住宅の合間にある路地で歌っていた若者エディーをベッドに誘う[18]。アルコール依存症の夫のため歌手のキャリアを捨てていたマリアは、エディーの指導者としてショービジネスの世界に返り咲く望みを抱き、彼に衣装を買う金を与える。エディーはその金でウィスキーを買い込んで身重の妻の元に戻る。その妻もまた結婚によってショービジネス界を退き、夫から虐待を受けていた。エディーはマリアを利用して本物の歌手として身を立てようと考える。しかしエディーはマリアの住所を記憶しておらず、会いに行くことができなかった。彼にとって共同住宅の建物はどれも同じ見た目でしかなかった[19]。 この作品はアイズナーが知っていた実在の人物を元にしている。共同住宅を回り、「ポップミュージックや、調子外れの芝居がかったオペラ」を歌って小銭を稼いでいた失業中の男性だった[20]。
"The Street Singer" (路上歌手)