アンワル・アッ=サーダート
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1970年9月28日、ナセルが死去すると副大統領として大統領代行を務めることになったサダトは国民へ大統領の死去を伝えるスピーチを行った。同年10月15日、サダトは正式に大統領に就任し、大統領就任後はナセルの社会主義的経済政策を改めて経済自由化を進めるとともにイスラム主義の運動を解禁してエジプトの路線を大きく右旋回させた。これらの政策に対する反対派は一掃し、国有メディアはそれを革命の矯正と名付けた。さらに1961年にシリアが離脱して以来、連合国家の体をなしていなかったアラブ連合共和国の正式な解体を決断し1971年9月2日、国号をエジプト・アラブ共和国に改めた。
第四次中東戦争と対イスラエル和平

大統領就任当初、サダトはナセルが敷いた汎アラブ対イスラエル強硬路線を継承し、シリアやリビアとともにアラブ共和国連邦を結成した。1973年10月6日、シリアと共同でイスラエルに開戦して第四次中東戦争を主導し、イスラエル軍に大打撃を与えた。これによってサダトは国民的英雄となった。1978年のキャンプデービッド合意、左から、ベギン、カーター、サダト。サダトとベギン。

この戦争前にはソビエト連邦の軍事顧問団を追放しており、1974年2月にアメリカ合衆国との国交を正常化させ、当時のリチャード・ニクソン政権から軍事的経済的援助を受け[6][7]1976年にはナセルの親ソ・反米の外交路線を完全に反ソ・親米に転換した。同年3月にソ連との友好協力条約を破棄し、翌4月に中ソ対立を起こしていた中国ホスニー・ムバラク副大統領を派遣して毛沢東と会見させて武器を購入した[8][9][10]。同年9月にはサウジアラビアモロッコイランなどとともに結成した反ソ同盟サファリ・クラブ(英語版)の本部をカイロに置き[11][12]、第一次シャバ紛争(英語版)やオガデン戦争ではザイールソマリアを支援してアフリカからのソ連の影響力排除を画策し[13]ソ連のアフガニスタン侵攻を批判してモスクワオリンピックをボイコットして反政府武装勢力のムジャヒディンへの支援を表明した[14][15]

1977年にイスラエルのメナヘム・ベギン首相の招きでエルサレムを訪問した。エジプト・イスラエル間の和平交渉を開始し、翌1978年にアメリカのジミー・カーター大統領の仲介のもと、キャンプ・デービッド合意にこぎつけた。そして1979年には両国間に平和条約が結ばれた。

この合意は長年の仇敵だったイスラエルとの和解をもたらすものだけではなく、1967年第三次中東戦争でイスラエルに占領(英語版)されたシナイ半島の領土を平和裡に返還する伏線ともいうべきもので、エジプトが中東和平の先駆けとして周知されることにも繋がった。
国民からの反発

この歴史的合意により、サダトはベギンとともに1978年ノーベル平和賞を受賞し世界各国から高い支持を受けた。だが、このエジプト=イスラエル単独和平は「パレスチナアラブ人同胞に対する裏切り」と受け取られ、スーダンモハメド・アン=ヌメイリ[16]を除くアラブ諸国の指導者とイスラム教徒の民衆の反感を招き、サダト政権は次第に孤立する。また1974年から1982年まで2度の石油危機もあって急激に成長したものの、経済自由化と外資導入のインフィタ政策の結果、エジプト社会に貧富の差が広がり、腐敗が横行したことによる国民の不満も高まっていた。

1978年11月、イラクバグダッドで行われた1978年アラブ首脳会議(英語版)でエジプトは主導国であるにもかかわらず、アラブ連盟を追放された[17]。同時にアラブ連盟の本部もエジプトのカイロからブルギーバ政権下のチュニジアチュニスへと移転した。この会議を主催してエジプト追放に成功したイラクはエジプトに代わってアラブの盟主になることも目論み[18]、後にイラン・イラク戦争を引き起こす原因の1つになったともされる。1975年、イランのパーレビ国王とともに

1979年1月、イランでルーホッラー・ホメイニーが指導するイラン革命が勃発した。サダトは親しかったモハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝のエジプトへの亡命を受け入れたものの、その後パフラヴィーがアメリカへ向かうとイスラム教徒を中心に猛烈な反発を受けることになった。

イスラム教徒や知識層からの反発が強まる中、1981年9月にサダトは共産主義者、ナセル支持者、フェミニストイスラム原理派、大学教授やジャーナリスト、学生運動家といった知識人および政治的活動家の多くを厳しく取り締まり拘束した。その数はおよそ1600人におよび、国際的な非難を受けた。

この間に発生した経済恐慌と反対派に対する抑圧によって、サダトに対する国民の支持はますます失われていった。
暗殺詳細は「アンワル・アッ=サーダート暗殺事件(英語版)」を参照

1981年10月6日、サダトは第四次中東戦争開戦日を記念しその勝利を祝う戦勝記念日のパレードを観閲中にイスラム復興主義過激派のジハード団に所属するハリド・イスランブリ砲兵中尉によって暗殺された。

サダト本人も、自分がいつか暗殺されることを予期しており、近々自分が殺されるだろうと親しい友人などに語っていたという。死の直前にしたためたとされる手記には「自分は、今まで永年の仇敵とされていた、イスラエルとの間に平和を作り上げた。これで人生の終わり。あとはただ昇天を待つのみである」と記述されている。また暗殺される一年前に出された自伝にも、自らの死を予期する記述がある。しかし事件当日、制服の方が崩れると言うことで、サダトは防弾チョッキを着ようとはしなかった。

そのため、4重の警護に守られており、パレードにおける火器使用の規制が行われるはずであったが、その手続きを担当する士官はメッカ巡礼に出かけていた。折しも上空では空軍のフランス製の6機のミラージュが見事なアクロバット飛行を披露して赤・白・緑の煙でエジプト国旗を描いており、群衆はそれに気をとられていた。パレード中の砲兵車両部隊の1両が大統領の観閲席前にエンジン故障を装い突然停止し、乗車していた暗殺隊が飛び降りてきた。イスランブリ砲兵中尉は大統領の前に進み、サダトはイスランブリ砲兵中尉の敬礼を受けようと起立していたがイスランブリ砲兵中尉は3個の手榴弾を投げつけ、その内1個が爆発した。イスランブリ砲兵中尉と暗殺隊は突撃銃で観閲スタンドに射撃した。サダトが倒れた後、人々は銃弾からサダトを守るために周囲に椅子を投げた。その時、イスランブリ砲兵中尉が「ファラオへの死!」と叫びながら観閲スタンドに走り寄り、サダトの体へ銃を発射した。

銃撃戦はなおも約2分間続き、キューバ特命全権大使オマーンの将官、中国の軍事技術者[19]コプト正教司祭を含む11名が死亡、ホスニー・ムバラク副大統領、ブトロス・ブトロス=ガーリ外務大臣、訪問客のアイルランドのジェームズ・タリー国防大臣、4人のアメリカ軍連絡将校を含む38名が負傷した。


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