1929年夏にスイスへ移住していたアンネの叔父、エーリヒ・エリーアスは、ジャム製造に使うペクチンをつくる会社「ポモジン工業」の子会社オペクタ商会(ドイツ語版)スイス支社を経営していた。エリーアスは義兄にあたるオットー・フランクにオランダ・アムステルダムへ亡命してそこでオペクタ商会オランダ支社を経営しないかと勧めた。オットーはドイツに残ることの危険性、オランダに知り合いがいたこと、オランダが難民に比較的寛容であったことなどを考慮してこの申し出をありがたく受けることにした[22][26][27]。
まず仕事と住居を安定させるため、1933年6月にオットーが単身でアムステルダムへ移った。その間、アンネは姉・マルゴーや母・エーディトとともにアーヘンで暮らすエーディトの母、ローザ・ホーレンダーの家で暮らした[27][28][29]。オットーはヴィクトール・クーフレルやミープ・ヒースなど信用のできる人物を雇い、何とか事業を軌道に乗せた[30][31][32]。
オットーはその間、一家の住居先も探した。エーディトもアーヘンとアムステルダムを行き来して夫の住居探しを手伝った。オットーたちはアムステルダム・ザウト(オランダ語版)の新開発地区に一家4人で暮らすのにちょうどいいアパートを見つけ、そこを購入した。1933年12月にまずエーディトとアンネの姉マルゴーが向かい、続いて1934年2月にはアンネもそこへ移住していった[33][34]。
オランダでの生活オランダ・アムステルダムのメルウェーデ広場(2010年)。当時のままに残されている。アンネの自宅はビルの右側の建物群、ビルから5番目の建物。写真では右端に少しだけ見える。広場中央に見えるのはアンネ・フランク像。
アムステルダム・ザウト地区は当時開発中で、ドイツからナチスの迫害をのがれて移住してきたユダヤ人が多く集まってきていた[35]。フランク一家もそうした家の一つである。フランク一家はアムステルダム・ザウト地区の一郭であるメルウェーデ広場(オランダ語版)37番地のアパートの三階で暮らしていた[35][36][37][38]。メルウェーデ広場は二等辺三角形をした広場で、三角形の頂点には当時としては珍しい12階建てのビルがそびえ立っている(写真参照)[39]。
姉のマルゴーは普通の小学校に入学したが、アンネは、1934年に自宅の近くのニールス通りにあるモンテッソーリ・スクールの付属幼稚園に入学した[33][40][41][42]。さらに1935年9月には幼稚園と同じ建物の中にあるモンテッソーリ・スクールに入学する[40][41][43][# 1]。モンテッソーリ・スクールは自由な教育を特徴とし、時間割が存在せず、教室での行動を生徒の自主性に任せ、授業中の生徒のおしゃべりさえも推奨していた[40][42]。アンネにモンテッソーリ・スクールを選んだのは、アンネがおしゃべりで長い間じっと座っていることができない性分であったためという[42][46]。
父親のオットー・フランクは娘たちについて「アンネは陽気な性格で女の子にも男の子にも人気があった。大人を喜ばせるかと思えば、あわてさせる。あの子が部屋に入ってくるたびに大騒ぎになったものでした。一方姉のマルゴーは聡明で誰からも『いい子だね』と褒められるような子供でした」とのちに語っている[47]。アンネが暮らしていたメルウェーデ広場37番地のアパート。3階部分がフランク家の部屋だった。
当時モンテッソーリ・スクールは革新的な学校と目されており、そのためユダヤ人の入学者が多かった[48]。アンネのクラスも半分がユダヤ人であり、そのほとんどがアンネと同じドイツ系であった[49]。アンネはモンテッソーリ学校で、同じくドイツから亡命してきたユダヤ人一家の子供ハンネリ・ホースラル(オランダ語愛称リース)やスザンネ・レーデルマン(愛称サンネ)と親しく遊んでいた。いつも仲良しの3人少女は「アンネ、ハンネ、サンネの3人組」などと呼ばれていた[39][50]。特にハンネのホースラル家とアンネのフランク家は家族ぐるみの親しい付き合いをしていた。1937年秋にアンネにサリー・キンメル[# 2]という初めてのボーイフレンドができた。これ以降、アンネの友達に男の子が増えてくるようになった[51]。陽気なアンネは学校でもパーティーでも目立つ女の子で男子からも人気があった。映画スターやファッションに興味を持ち始めたのもこのころだった。しかしアンネは病弱であり、百日咳、水ぼうそう、はしか、リューマチ熱など小児病にはほとんど罹患している[53][54]。