アンドラ
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人口密度164.2[1]人/km2

GDP(自国通貨表示)
合計(2004年)22億4368万ユーロ (€)

GDP(MER
合計(2004年)28億1752万ドル(???位
1人あたりxxxドル

GDP(PPP
合計(2019年)25億7340?ドル(164位
1人あたり32,575ドル

成立
アラゴン連合王国より1278年
フランス帝国より1814年
憲法制定1993年3月14日

通貨ユーロ (€)(EUR[2][3]
時間帯UTC+1 (DST:+2)
ISO 3166-1AD / AND
ccTLD.ad
国際電話番号376
^ a b “ ⇒UNdata”. 国連. 2021年11月11日閲覧。
^ 1999年までの通貨はフランス・フランスペイン・ペセタ
^ アンドラのユーロ硬貨も参照。

アンドラ公国(アンドラこうこく)、通称アンドラは、ヨーロッパ西部ピレネー山脈中に位置する立憲君主制国家首都アンドラ・ラ・ベリャ
概要

フランススペインに挟まれたピレネー山脈中にあり、歴史的理由によりフランス大統領カタルーニャ(ラ・セウ・ドゥルジェイ)のウルヘル司教の2名による共同公(カタルーニャ語版、英語版)を元首とするミニ国家である。

イベリア半島に属しており、国際連合の分類では南欧とされている。

アンドラの国旗は青、黄色、赤の縦三色旗であり真ん中に国章が描かれている。

元々はフォワカタルーニャの旗を合わせた黄色と赤の縦2色の旗を使用していたが、1866年にフランスの青を入れた三色旗に変更され、それぞれの地域との関係の深さを強調したものとなっている。

国章に描かれている紋章は、アンドラと関係が深いフランスとカタルーニャの貴族などの紋章で、左側がカタルーニャ(上がウルヘル司教、下がカタルーニャ伯)、右側がフランス(上がフォア伯、下がベアルン伯)となっており、国章の下部には国のモットーである「団結は力なり」がラテン語で書かれている。
国名

政体を冠した正式国名カタルーニャ語の、Co-Principat d'Andorra(コ・プリンシパット・ダンドーラ)で、「アンドラ共治公国」の意味を持つ[1]、通称、Andorra(アンドーラ)。フランス語では、Principaute d'Andorre(プランシポテ・ダンドール)、通称 Andorre(アンドール)、スペイン語では、Principado de Andorra(プリンシパード・デ・アンドーラ)、通称 Andorra(アンドーラ)である。日本語での正式国名はアンドラ公国、通称はアンドラ、漢字表記は安道爾である。

国名については「アンドラ渓谷公国(カタルーニャ語:Principat de les Valls d'Andorra)」と称されることもある。「アンドラ」の由来については諸説あり定かではないが、一説には同地に居住していたイベリア人の部族を古代ギリシア語でアンドシンス(Andosins)と呼称しており、バスク語で「巨大な」を意味する「handia」に由来するというものがある。

しかし、アンドラの歴史家であるカルレス・ガスコンは、「アンドラの由来にアンドシンスは関係がない」としており、上記の仮説については否定している。[2]アンドラの一般評議会の元本部である La Casa de la Vall。
歴史詳細は「アンドラの歴史」を参照

国内で発見された遺跡から、紀元前1万年ごろには定住が行われていたことが推測されている。古代ギリシア歴史家ポリュビオスは『歴史』第3巻35章1節において、ポエニ戦争カルタゴ軍がピレネー山脈を越える際、アンドラの谷に先住民が居住しており、彼らを「アンドシンス」と呼んだ事が記されている。これが文献上に見える最古のアンドラである。

803年、フランク王国シャルルマーニュピレネー山脈中においたスペイン辺境領の一つ、ウルヘル伯領(英語版)を起源とする[3]

1133年、ウルヘル伯はウルヘル司教にアンドラの宗主権を譲り渡した[3]。1096年、司教はカボー家(カタルーニャ語版)にアンドラの防衛を委ねる代わりに、代償としてアンドラの一部カボー谷の統治権を与えた[4]。カボー家の権利はカステルボー子爵(カタルーニャ語版)との婚姻によって移動し、1208年にはフォワ伯(英語版)家によって掌握された。フォワ伯家はアンドラ全体の統治権を狙い、司教と争うようになった。事態の解決のため、1278年に両者を対等の共同統治者とする宗主契約が結ばれた[5][3]。1419年には最初の議会が設置されている[3]。フォワ伯のガストン4世ナバラ女王レオノールと婚姻し、以降フォワ伯位とアンドラの統治権にくわえてナバラ王を継承するようになった。フォワ伯の地位は女系を経てブルボン家に渡り、1589年にアンリ4世がナバラ王兼フランス王となったことでフランス王がアンドラの宗主権を受け継ぐことになる。1607年にはアンリ4世が、フランス王とウルヘル司教を共同公とする勅令を出し、アンドラは公国となった[3]

フランス革命が発生して1793年ルイ16世が処刑されると、フランス側の共同公は存在しなくなった[4]。アンドラ側は革命政権を承認せず、フランス第一共和政政府もアンドラとの関係を絶った[4]。1794年、スペインとの間でピレネー戦争を戦っていた共和政政府は、この機にアンドラを併合しようともくろんだ[4]。この時アンドラの代表がフランス軍の司令官のもとにおもむき、侵攻を断念するよう説得している。1806年、フランス皇帝に即位したナポレオン・ボナパルトとの間で両国関係は修復され、再びフランスの元首が共同公につくことになった[4]1814年第一帝政崩壊により支配から脱するが、以降も封建的な制度はそのまま受け継がれていくことになる。

1914年第一次世界大戦が勃発した際には、3人のアンドラ人がフランス軍に志願した事が判明している。なお、当時のアンドラがどのような立場であったかは現状不明である。[6]


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