アンドラ
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元々はフォワカタルーニャの旗を合わせた黄色と赤の縦2色の旗を使用していたが、1866年にフランスの青を入れた三色旗に変更され、それぞれの地域との関係の深さを強調したものとなっている。

国章に描かれている紋章は、アンドラと関係が深いフランスとカタルーニャの貴族などの紋章で、左側がカタルーニャ(上がウルヘル司教、下がカタルーニャ伯)、右側がフランス(上がフォア伯、下がベアルン伯)となっており、国章の下部には国のモットーである「団結は力なり」がラテン語で書かれている。
国名

政体を冠した正式国名カタルーニャ語の、Co-Principat d'Andorra(コ・プリンシパット・ダンドーラ)で、「アンドラ共治公国」の意味を持つ[1]、通称、Andorra(アンドーラ)。フランス語では、Principaute d'Andorre(プランシポテ・ダンドール)、通称 Andorre(アンドール)、スペイン語では、Principado de Andorra(プリンシパード・デ・アンドーラ)、通称 Andorra(アンドーラ)である。日本語での正式国名はアンドラ公国、通称はアンドラ、漢字表記は安道爾である。

国名については「アンドラ渓谷公国(カタルーニャ語:Principat de les Valls d'Andorra)」と称されることもある。「アンドラ」の由来については諸説あり定かではないが、一説には同地に居住していたイベリア人の部族を古代ギリシア語でアンドシンス(Andosins)と呼称しており、バスク語で「巨大な」を意味する「handia」に由来するというものがある。

しかし、アンドラの歴史家であるカルレス・ガスコンは、「アンドラの由来にアンドシンスは関係がない」としており、上記の仮説については否定している。[2]アンドラの一般評議会の元本部である La Casa de la Vall。
歴史詳細は「アンドラの歴史」を参照

国内で発見された遺跡から、紀元前1万年ごろには定住が行われていたことが推測されている。古代ギリシア歴史家ポリュビオスは『歴史』第3巻35章1節において、ポエニ戦争カルタゴ軍がピレネー山脈を越える際、アンドラの谷に先住民が居住しており、彼らを「アンドシンス」と呼んだ事が記されている。これが文献上に見える最古のアンドラである。

803年、フランク王国シャルルマーニュピレネー山脈中においたスペイン辺境領の一つ、ウルヘル伯領(英語版)を起源とする[3]

1133年、ウルヘル伯はウルヘル司教にアンドラの宗主権を譲り渡した[3]。1096年、司教はカボー家(カタルーニャ語版)にアンドラの防衛を委ねる代わりに、代償としてアンドラの一部カボー谷の統治権を与えた[4]。カボー家の権利はカステルボー子爵(カタルーニャ語版)との婚姻によって移動し、1208年にはフォワ伯(英語版)家によって掌握された。フォワ伯家はアンドラ全体の統治権を狙い、司教と争うようになった。事態の解決のため、1278年に両者を対等の共同統治者とする宗主契約が結ばれた[5][3]。1419年には最初の議会が設置されている[3]。フォワ伯のガストン4世ナバラ女王レオノールと婚姻し、以降フォワ伯位とアンドラの統治権にくわえてナバラ王を継承するようになった。フォワ伯の地位は女系を経てブルボン家に渡り、1589年にアンリ4世がナバラ王兼フランス王となったことでフランス王がアンドラの宗主権を受け継ぐことになる。1607年にはアンリ4世が、フランス王とウルヘル司教を共同公とする勅令を出し、アンドラは公国となった[3]

フランス革命が発生して1793年ルイ16世が処刑されると、フランス側の共同公は存在しなくなった[4]。アンドラ側は革命政権を承認せず、フランス第一共和政政府もアンドラとの関係を絶った[4]。1794年、スペインとの間でピレネー戦争を戦っていた共和政政府は、この機にアンドラを併合しようともくろんだ[4]。この時アンドラの代表がフランス軍の司令官のもとにおもむき、侵攻を断念するよう説得している。1806年、フランス皇帝に即位したナポレオン・ボナパルトとの間で両国関係は修復され、再びフランスの元首が共同公につくことになった[4]1814年第一帝政崩壊により支配から脱するが、以降も封建的な制度はそのまま受け継がれていくことになる。

1914年第一次世界大戦が勃発した際には、3人のアンドラ人がフランス軍に志願した事が判明している。なお、当時のアンドラがどのような立場であったかは現状不明である。[6]

ニューヨークタイムズの記事によると、「第一次大戦時アンドラはドイツに対して宣戦布告を行い第一次世界大戦に参戦したが、パリ講和会議に出席せずヴェルサイユ条約の範囲外にあったため、形式的にアンドラ公国はかなり後までドイツとの戦争状態にあった」とされている。[7]

しかし2014年に公表された歴史家ペレ・カベロの調査では、アンドラが第一次世界大戦に参戦したという公的な文書は存在せず、またドイツ側にも「アンドラが宣戦布告してきた」という記録は残っていないことが確認された。加えてドイツと終戦したとされる時期も1939年、1943年、1958年と複数ありハッキリしておらず、それらを裏付ける証拠は何一つとして見つかっていない。[8]

同じく歴史家であるポール・チカも、「アンドラがドイツに対して宣戦布告したとする誤った情報が長年にわたって流れている。」と論文にまとめており、第一次世界大戦中アンドラは中立であったとしている。またロシア外務省も、「アンドラが2つの世界大戦を生き延びることができたのは中立であったからである。」と発言しており、アンドラは第一次世界大戦に関与していなかったとして扱っている。[9]

1934年7月にはリトアニアの冒険家、ボリス・スコスヤレフ(英語版)がフランスの庇護下にあるアンドラ王「ボリス1世」を称して、ウルヘル司教に対して宣戦布告したが、まもなく国外追放される事件が起きている[4]

スペイン内戦の時期には中立を守り、フランス軍が駐屯している[4]。第二次世界大戦では中立を守ったものの、スペイン軍が駐留している[4][3]。またスペインとヴィシー政権の密輸ルートとして利用されている。1944年にはドイツ軍の部隊が領内に侵入しているが、1945年に退去するまで戦闘行為は発生しなかった[4]

1993年3月14日、憲法が国民投票の結果可決され、ウルヘル司教とフランス大統領を共同元首とする議会民主主義制国家となる事が決定された。フランスおよびスペインは6月1日に国家承認し、正式に独立国家となった。同年7月、国際連合に加盟した[5]
政治詳細は「アンドラの政治(英語版、フランス語版、スペイン語版)」を参照

アンドラの国家元首である共同公は、スペインウルヘル司教(Obispado de Urgell, eveques d'Urgell)とフォワ伯爵(comte de Foix)の法定継承者であるフランス大統領とが保持する、共同君主制(英語版)を採用している。1993年の憲法で国民主権が明記され、公の権限は首相の任命、大使の接受、法律・条約の認証などである[5]。両者がアンドラの国務に直接携わったり来訪することはほとんどなく、駐在代理官(representant)が委任を受けてその権限を行使する。

アンドラの国会に当たる大評議会カタルーニャ語: Consell General d'Andorra)は「渓谷総会(カタルーニャ語: Consell General de les Valls)」とも呼ばれ、一院制で、定数は28議席[10]、任期は4年で、14議席を全国区から選出し、残り14議席は7教区ごとに割り振られて各教区2議席ずつの定数となっている。


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