アントン・ブルックナー
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象徴的なエピソードとして、父の死のその日、母は12歳のアントンを連れて自宅から8キロ離れた近郊のザンクトフローリアン修道院へ葬式の手配のために行き、その主任神父ミヒャエル・アルネートにアントンの世話を頼んだのである。

そうして同年7月にザンクトフローリアン修道院の寄宿生として入学したアントンは、第3学年に編入し、聖歌隊に加わり、宗教と音楽の教育を受けた[8]。「トネルル[9] (あるいはトーネル[4])坊や」と呼ばれたアントンは、ここで幾人かの教師たちとの幸運な出会いがあった。校長ボグナーは音楽理論と対位法を教え、ベートーヴェンの教師であったヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーの弟子であるエドヴァルト・クルツには和声を習い、そして特に「オルガンのベートーヴェン」とあだ名されたアントン・カッティンガーにオルガンを師事した[10]
教師時代

そうして1840年、若きブルックナーにとって最初の重要な契機がくる。学習課程を修了したブルックナーは、教会のキャリアを進むか、教師になるか、勉学を続けるかの岐路に立たされた。家庭の困窮を思い起こしたアントンは、父と同じく教員になる道を選んだ。

同年10月、教員養成学校に通うためリンツに居を構えた。これは若き日のブルックナーにとって重要な音楽体験であり、中でもベートーヴェンウェーバーの音楽に影響を受けた[11]。翌1841年に教員登用試験に合格し補助教員となったブルックナーは、ボヘミア国境近くの辺鄙な村ヴィントハーク(ドイツ語版、英語版)に赴任した[11]。そこで2年間教員を務めたが、洗練された修道院育ちのブルックナーにとっては、田舎のあまりに退屈な生活と、教職とは名ばかりの雑用や畑仕事に嫌気が差した[11]。ある日肥やし撒きという屈辱的な仕事を拒否した事件がきっかけで、当地の校長からザンクトフローリアン修道院に苦情が入った[11]。父の死の日に迎えて以来ブルックナーの面倒を見てきた修道院長アルネートの判断で、1843年にクローンシュトルフ(ドイツ語版、英語版)という新たな任地へ転勤することとなった[12]。クローンシュトゥルフは故郷アンスフェルデンやザンクトフローリアン、州都リンツからもそう遠くなく、また徒歩1時間半で通える近くの街エンス(ドイツ語版、英語版)で作曲家でオルガニストのレオポルト・フォン・ツェネッティ(英語版) (1805?1892) に習うことができた[12][13]。特にバッハ平均律クラヴィーア曲集は夜中まで分析に夢中になった[12]。もう一つの近くの街シュタイアーではピアノの演奏会を聴く機会に恵まれ、ヨーゼフ・ハイドンミヒャエル・ハイドンの兄弟、モーツァルトベートーヴェンの作品に触れたり、シューベルトとピアノ連弾をしたことのあるカロリーネ・エーベルシュタラーとシューベルトの作品を連弾したりもした。またシュタイアーのゴシック様式の教会とオルガンもブルックナーに大きな影響を与えた。ここではまた最初の合唱曲の多くが作曲された。

そして校長登用試験に合格したブルックナーは、1846年(21歳)少年時代を過ごした聖フローリアン修道院の教師となって帰ってきた[14]。1851年、27歳でカッティンガーの後任として修道院のオルガニストの地位を踏襲した[15]


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