アントン・チェーホフ
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1891年には新聞社主のアレクセイ・スヴォーリンとともに西ヨーロッパを訪れた[15][注釈 3][要出典]。スヴォーリンはチェーホフの作品をすでにいくつも出版した人物であり、2人は長く親密な友人関係を築いた仲であった。しかしドレフュス事件を受け、チェーホフはアルフレド・ドレフュスを擁護するとスヴォーリンと対立し、両者の関係は決裂に至る[いつ?]。チェーホフとオリガ・クニッペル

1892年にモスクワ郊外のメリホヴォに土地を購入して移り住んだ[16]チェーホフは、地主になったことを大変喜んでおり[17]、また医師として周辺農民を診察し治療もし始めた[18]1895年秋には長編戯曲『かもめ』を執筆した。この作品は翌1896年秋にサンクトペテルブルクアレクサンドリンスキイ劇場で初演されると、ロシア演劇史上、類例がないほどの失敗に終わった。しかし2年後の1898年には、モスクワ芸術座による再演が大きな成功を収めている。同座はこの成功を記念してシンボル・マークを変え、飛翔するかもめをデザイン化した意匠を採用した[19]

演劇界の動向に対してチェーホフの健康は悪化しつつあり、1897年3月には大量に喀血して倒れた[20]。医師に転地を勧められたチェーホフはクリミア半島南部のヤルタで静養したが、同年10月には父パーヴェルを亡くすと父の最期の地メリホヴォを離れる決意をして土地を売りに出す。チェーホフはヤルタに建てた家が完成すると、翌1899年にメリホヴォを転出した[21]。ヤルタでは短編小説「犬を連れた奥さん」などを執筆し、転入した1899年にはモスクワ芸術座が『ワーニャ伯父さん』を初演、同座初演は1901年の『三人姉妹』が続く。チェーホフはこの上演でマーシャ役を演じた女優のオリガ・クニッペルと同年5月に結婚した[22]。翌1902年、マクシム・ゴーリキーの学士院会員選出の取り消しに抗議して、ウラジミール・コロレンコとともに会員を辞退した[23]

1904年には最後の作品『桜の園』がやはりモスクワ芸術座によって初演され、期間中の1月17日はチェーホフの44歳の誕生日と筆歴25年の祝賀を兼ねた。だが本人はすでに結核で病み衰え、舞台に立ち続けることはできなかった。同年6月、転地療養のためドイツのバーデンワイラーに赴くと、翌月の7月15日ユリウス暦7月2日)に同地で亡くなった[24]。最後の言葉はドイツ語で「私は死ぬ」であったと伝えられる[要出典]。墓所はノヴォデヴィチ墓地である[25]
評価

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アントン・チェーホフはロシア文学の中で、あるいは世界文学史でも有数の巧みな小説作家である。

当時ロシアの文壇では長編こそが小説であるという風潮が強く、チェーホフのように第一線で短編小説を絶えず発表した書き手はいなかった。しばしばフランスのギ・ド・モーパッサンとも比較されるが、伏線を計算して配置するプロットに技巧を凝らした小説にはあまり関心をもたなかったとされる。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}典型的なチェーホフの物語は外的な筋をほとんど持たない。その中心は登場人物たちの内面にあり、会話の端や細かな言葉、ト書きに注目するほかない。しばしば語られることではあるが、チェーホフの小説や劇においては何も起こらない。あるいはロシア人研究者チュダコーフが指摘するように、「何かが起こっても、何も起こらない」[独自研究?]。

小説にとどまらず、チェーホフは最晩年の作品である戯曲『かもめ』、『三人姉妹』、『ワーニャ伯父さん』、『桜の園』の作者として、伝統的な戯曲と対極を成す新たな領域を切り開いた劇作家でもある。これらの作品の与えたインパクトの多くは、例えば『かもめ』の終幕に代表される巧みなアンチクライマックス(遁辞法[要説明])による。

井上ひさしは、チェーホフは演劇革命を起した人物だとし、一に主人公という考え方を舞台から追放した、二に主題という偉そうなものと絶縁した、三に筋立ての作り方を変えたと分析している[注釈 4]
人物像

ソ連時代には「文豪チェーホフ」というイメージに適う「紳士チェーホフ」という人物像が政治的にあてはめられていた。当時出版されたチェーホフ全集などで、家族がそれにあてはまらない箇所を削除したことがわかっている。日本でも、チェーホフ作品の翻訳者として知られた神西清による「チェーホフは酒を絶っていた」などの言葉がある。しかし、チェーホフはむしろ酒豪の部類に入る人間であったし、書簡などを読めばいわゆる「下ネタ」を嫌っていたわけでもなく、オリガとの交際中も複数の女性と関係を持っていたことは伝記的な事実である。チェーホフ自身は、象徴主義的な方法による演劇を嫌っており、『かもめ』の中でコスチャの劇中劇としてパロディー化したが、同時に象徴派の詩人モーリス・メーテルリンクから大きな影響を受けたとも告白している。他に影響を受けた劇作家に、ヘンリック・イプセンがいる。『かもめ』は、イプセンの『野鴨』(チェーホフが気に入っていた作品のひとつ)抜きに、今日演じられるものには成らず、全く書かれなかった可能性もあった。
没後の影響

没後ロシア文学界ではチェーホフの評価は高かったものの、国際的な評価は第一次世界大戦最中、コンスタンス・ガーネットにより作品が英訳された後も低かった。

しかしチェーホフの評論家の鋭い分析に挑む挑戦的な文学スタイルで、1920年代からイギリスではチェーホフの戯曲が人気を博し、今日ではイギリス演劇の代表的なものとなっている。またアメリカ演劇界は写実的な演劇を上演するスタニスラフスキーの演出技巧の影響を経た後、それに遅れるような形でチェーホフの影響が次第に強くなってくる。テネシー・ウィリアムズアーサー・ミラークリフォード・オデッツなども好んでチェーホフの技法を用いている。

イギリスの演劇作家であるマイケル・フレインは、チェーホフのおどけた家族が見る社会に焦点を置いて描く作風に影響を受けた作家としてよく挙げられる。短編作家の多くも同じように少なからず、チェーホフの影響は受けている。その代表格としてキャサリン・マンスフィールドジョン・チーヴァーがいる。またアメリカの作家のレイモンド・カーヴァーもチェーホフのミニマリズム的な散文に影響を受けているし[注釈 5]、イギリスの短編作家のV・S・プリチェットもチェーホフの作品から影響を受けている。

またチェーホフの作品を元に制作された映画では、エミーリ・ロチャヌーの『狩場の悲劇』(1978年)や、ニキータ・ミハルコフマルチェロ・マストロヤンニの合作の『黒い瞳』(1987年)、ルイ・マルの『42丁目のワーニャ』(1994年)、アンソニー・ホプキンスの『8月の誘惑』などがある。


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