アントニン・ドヴォルザーク
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1870年には最初のオペラである『アルフレート』を書き上げるが、この作品は、ライトモティーフの手法や切れ目のない朗唱風の歌唱など、ワーグナーの影響が強く表れている。同時期に作曲された弦楽四重奏曲第3番や第4番にもその影響が濃く、当時のドヴォルザークが熱心なワグネリアンであったことがうかがえる。さらに1871年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のプラハ初演に刺激されて、歌劇『王様と炭焼き(チェコ語版)』(第1作)が作曲されている。スメタナはこの作品を「まさに天才の理念に満ちた」作品と評したが、同時に「これが上演されるとは思わない」とも予言した。その言葉通り、このオペラは4週間のリハーサルの末、放棄されることとなった。

ドヴォルザークは1871年に、作曲に多くの時間を充てるためにオーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てることにした。こうした状況の中、翌1872年から作曲に取りかかった作品が、彼の最初の出世作となった賛歌『白山の後継者たち』であった。1873年3月9日、『白山の後継者たち』は、学生時代の友人カレル・ベンドルの指揮で初演された。民族主義の高まりもあり、この曲は成功を博し、プラハの音楽界で著名な存在となる契機を得た。この初演の際に、かつて音楽教師を行っていた姉妹のうち妹のアンナ・チェルマーコヴァーと再会し、この年の秋に結婚した。1874年にはプラハの聖ヴォイチェフ教会(聖アダルベルト教会)のオルガニストに就任した。この教会は伝統ある教会であり、社会的地位はかつての楽団員のそれよりも向上し、ささやかではあるが年俸が保証されることで、新婚生活の経済状態を安定させることができた。そしてこの年からかつて放棄された『王様と炭焼き』の台本を再び採り上げ、これに第1作とは全く異なる音楽を作曲し、ナンバーオペラ(各曲が独立して番号が振られたオペラで、ワーグナーの手法とは完全に逆行する)として完成させた。1874年11月24日に行われた初演は大成功を収め、音楽雑誌『ダリボル』には「ドヴォルザークは、その名が金字塔として際だつような地位にまで高められることだろう」という批評家プロハースカの予言が踊った。こうしてドヴォルザークはワーグナーの影響下から徐々に離れていった。
ブラームスとの出会い

1874年7月にドヴォルザークは交響曲第3番第4番他数曲を、新たに設けられたオーストリア政府の国家奨学金の審査に提出した。そして、1875年2月この奨学金が与えられることになったが、その金額(400グルデン)は当時の彼の年収(126グルデン)の2倍以上にあたる高額なものであった。この奨学金は年ごとに審査を受けるのであるが、ドヴォルザークは結局、5年間これを受け取っている。1876年ドヴォルザークは、弦楽五重奏曲ト長調 (Op.77, B.49) で芸術家協会芸術家賞を獲得する。1875年から1877年にかけて、プラハの豪商ヤン・ネフの依頼で作曲されたのが全22曲の『モラヴィア二重唱曲集(英語版)』で、「ベルリン国民新聞」はこれを「美しい乙女たちが露のきらめく良い香りの花を投げ交わしている」と激賞した。ドヴォルザークは1877年に奨学金審査のためにこの作品を提出した。審査員を務めていたブラームスはこの曲に目をとめ、懇意にしていた出版社、ジムロックに紹介した。ブラームスは紹介状に「この二重唱曲がすばらしい作品であることはあなたの目にも明らかでしょう。しかもそれらは優れた作品なのです」と書き送っている。個人的にも、1878年、ドヴォルザークはウィーンにブラームスを訪ね、翌1879年にはブラームスがプラハのドヴォルザークの許を訪ねるという具合に親しい交際が始まった。

このように音楽家としての栄光に踏み出したドヴォルザークだが、その家庭は不幸に襲われた。1877年8月に次女ルジェナが、翌9月に長男オタカルが相次いでこの世を去ったのである。彼らの冥福を祈り作曲されたのが、ドヴォルザークの宗教作品の傑作『スターバト・マーテル』であった。

『モラヴィア二重唱曲集』の出版で成功を得たジムロックは、1878年にドヴォルザークに対して、ブラームスのピアノ連弾のための『ハンガリー舞曲集』に匹敵するような『スラヴ舞曲集』の作曲を依頼した。この依頼に応えて作曲された作品集は、「神々しい、この世ならぬ自然らしさ」(ベルリン国民新聞)との絶賛を受け、ドヴォルザークの名はヨーロッパ中に広く知れわたった。このころのドヴォルザークはリストの『ハンガリー狂詩曲』をモデルにそのチェコ版を目指しており、チェコの舞曲や民族色を前面に押し出した作品を多く作曲する。また、この傾向は、そうした作品を期待する出版者や作曲依頼者の意向に沿ったものでもあった。たとえば、フィレンツェ弦楽四重奏団の第1ヴァイオリニスト、ジャン・ベッカーは「新しいスラヴ的な四重奏曲」を依頼し、ドヴォルザークはこれに応えてチェコの民族舞曲や、ウクライナ民謡「ドゥムカ」の形式を採り入れた弦楽四重奏曲第10番1879年)を作曲している。また、『チェコ組曲』も同年の作品である。

一方、ジムロックはドヴォルザークに、管弦楽曲のピアノ編曲版を要求する。こうした細々とした委嘱作品や編曲に追われながらも、ドヴォルザークは1879年にヴァイオリン協奏曲の第1稿を書き上げてヨーゼフ・ヨアヒムの元に送り、1880年にこれを改訂、さらに1882年に再び筆を加えてこれを完成させている。有名な『我が母の教えたまいし歌』を含む歌曲集『ジプシーの歌』(1880年)が書き上げられたのもこの時期である。そして、1880年に作曲された最も重要な作品は、ドヴォルザークのスラヴ時代の精華とも言うべき交響曲第6番ニ長調である。ハンス・リヒターに献呈された。1883年、古いフス派の聖歌を主題とする劇的序曲『フス教徒』が書かれた。これに対して音楽評論家ホノルカは「敬虔なカトリック教徒のドヴォルザークが異端のフス派を描くとは」とこの作品に注目している。
国際的名声

1878年に作曲され、同年にプラハで初演されて成功を収めたオペラ『いたずら農夫』が1882年にドレスデンで、翌1883年にはハンブルクで上演される。これはドヴォルザークのオペラがチェコ以外で上演された初めての例である。しかし、1885年ウィーン宮廷歌劇場での公演は、政治的な摩擦を引き起こし、リハーサルの段階から不評であった。ワーグナー派のフーゴ・ヴォルフは、ドヴォルザークのオーケストレーションについて「胸が悪くなる、粗野で陳腐なものだ」と批判している。


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