アントニオ猪木
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その際、ブラジル遠征中の力道山の目に留まる。
プロレスラーとして
プロレスデビュー

1960年(昭和35年)4月11日、興行でサンパウロを訪れていた力道山から直接スカウトされて日本へ帰国し、日本プロレスに入団。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという。デビュー後は、猪木の素質に目をつけたサニー・マイヤースからもトレーニングのオファーを受けた[18]

ジャイアント馬場のデビューと同日の1960年(昭和35年)9月30日、本名の猪木完至として、東京都台東区の台東区体育館大木金太郎を相手にデビュー(7分6秒、逆腕固めで敗退)[19][20]1962年(昭和37年)11月9日、沖縄県那覇市での長沢秀幸との試合において、リングネームをアントニオ猪木に改名[19]。このリングネームは、先輩レスラー豊登により後述の「死神酋長アントニオ」を経て命名。「ブラジル帰りの日系ブラジル人」であることを強調するためなど諸説ある[19]。なお、本名で活動中に出演したテレビドラマチャンピオン太』での役名「死神酋長」を気に入った力道山は、その名を猪木のリングネームにしようとしたという[19]

南米での興行を成功させるための布石として力道山は当初猪木を日系ブラジル人として売り出そうとしていた(猪木自身が「横浜生まれ」だということを公にしたのは力道山の没後であった)。デビューしてからまもなく、力道山の付き人となったものの、力道山は1963年(昭和38年)12月15日に死去。付き人としての期間は3年半だった[21]
アメリカ武者修行

1964年(昭和39年)にアメリカ武者修行に出発するが当初は正式な就労ビザが取れず、本名で活動することを避けていたと後に述べている。この時のリングネームは、ロサンゼルス日本人街であるリトル・トーキョーをもじった「リトル・トーキョー・トム」等多数。西海岸中西部南部をサーキットし、2年後に帰国。この遠征中には、デューク・ケオムカと組んでテキサス東部版のNWA世界タッグ王座[22]、およびヒロ・マツダと組んでミッドアメリカ版の同王座を奪取している[23](同期の馬場はMSGのトップイベンターには起用されたものの、アメリカ修行中のタイトル戴冠は果たしていない)。ミッドアメリカ版のNWA世界タッグ王座はエディ・グラハム&サム・スティムボートを破って獲得したものであり、東京プロレス国際プロレスの合同興行においても、グラハム&ジョニー・バレンタインを相手に防衛戦が行われた[24]。なお、テキサスではジョー・ブランチャードを破りNWAテキサス・ヘビー級王座を獲得したともされるが、これは同じく同地区で「トーキョー・トム」を名乗っていたレイ・ウルバノとの混同である[25][26]
東京プロレス

1966年(昭和41年)3月、アメリカ修行を終え、ジャイアント馬場吉村道明らとの合同練習に参加するために立ち寄ったハワイにおいて、前年末に日本プロレスを退社し、極秘裏にハワイ入りしていた豊登に「日本プロレスに帰っても一生馬場の上には行けん」と口説かれ、日本プロレスから離脱(太平洋上の略奪)。帰国後の4月23日、自身をエースとする東京プロレスの設立を豊登とともに公式発表[24]。10月12日の旗揚げ戦でのジョニー・バレンタインとの試合で名声を得る。

しかし、テレビ放送が付かなかったことや営業力の弱さ、豊登の横領などにより急速に業績が悪化。「客が少ない」という理由で興業を中止しようとしたところ、怒った観客にリングに火をつけられる「板橋事件」などが起き、東京プロレスは3ヶ月で破産、最終的に当時の自民党副総裁川島正次郎の仲介もあり古巣である日本プロレスに戻ることになる[27]
日本プロレス復帰

1967年5月に日本プロレス復帰後は馬場に次ぐ待遇を受け、1967年10月31日、ジャイアント馬場とのタッグチーム「BI砲」としてインターナショナル・タッグ王座を獲得。


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