アントウェルペン
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モロッコやトルコなどからの移民はアラビア語ベルベル語トルコ語などを用いている。若干の正統派ユダヤ教の人々はイディッシュ語を話す。
歴史
古代から中世

歴史上、アントウェルペンはガロ・ローマ文明の集落にその起源があると考えられる。スヘルデ川付近における最古の集落がある地域で1952年から1961年にかけて発掘が行われ、2世紀半ばから3世紀末の陶器や杯の破片が出土している。その後、ゲルマン人フランク族が進出した。メロヴィング朝期においてアントウェルペンに砦が築かれ、7世紀頃に聖アマンドゥスによってキリスト教化された。10世紀末、スヘルデ川は神聖ローマ帝国における境界となった。アントウェルペンには辺境伯が置かれ、フランドル伯と対峙した。11世紀、ゴドフロワ・ド・ブイヨンが、数年間アントウェルペンを治めた。12世紀、聖ノルベルト(ノルベルト・フォン・クサンテン)が、プレモントレ会則に基づくサン・ミシェル修道院を建てた。14世紀前半に英仏百年戦争が勃発するが、フランドル地方の毛織物産業はイングランドの羊毛産業と密接なつながりがあったため、親イングランドの立場をとろうとした。そのため、フランス王と結んでいるフランドル伯に対抗して、ヤコブ・ヴァン・アルテベルデがフランドル都市連合指導者となり、イングランド側を支持する姿勢をとった。アントウェルペンは、この百年戦争初期にイングランド王エドワード3世とヤコブ・ヴァン・アルテベルデが交渉にとりかかった際の拠点でもあった。エドワードの息子ライオネル・オブ・アントワープは、アントウェルペンで生まれている。

15世紀前半、フランドル諸都市は、イングランド産毛織物の流入によって市場を奪われることを望まず、ブルゴーニュ公に働きかけて輸入禁止の措置をとらせた。こうしたなか、アントウェルペンやベルヘン・オプ・ゾームはイングランドの毛織物商人を受け入れたため、イングランド産毛織物がアントウェルペンに流入した。この毛織物をライン川沿いのケルン商人が購入し、南ドイツなどへ供給するようになった。[5]15世紀半ばには、ニュルンベルクアウクスブルクなどの南ドイツ商人が、直接にアントウェルペンまで取引に訪れるようになった。これにより、香料をブルッヘ経由でなくイタリアから南ドイツ経由で入手できるようになった。こうした状況が近世アントウェルペン繁栄の前提となった。[6]
近世アントウェルペンの地図 1624年

このような商業網の変化に加え、ズウィンが土砂の堆積によって航行困難となったこともあり、中世後期におけるネーデルラント経済の中心ブルッヘが衰退していき、それに代わってスヘルデ河畔のアントウェルペン(当時はブラバント公国の支配下)が重要性を増すことになった。ライン川沿いのケルン商人との結びつきを強めたことでヨーロッパ商業網における地位は一層強化され、15世紀末には外国商館がブルッヘからアントウェルペンへと移転し始めた。1501年にはスヘルデ河岸にポルトガル船が香辛料などを積んで到来し[7]、1508年にはポルトガル王のもとで商館が設立され[8]、1510年におけるイングランド商館についての記載も史料に残されている。

歴史家フェルナン・ブローデルは、「このスヘルデ川に臨む都市はじつに国際経済全体の中心にあった。ブリュージュはというと、その最盛期にあっても、その地位まで到達したことがなかったのである」[9] と評している。そのアントウェルペンの黄金時代は、強く「大交易時代」と関連して海運業の隆盛を極め、16世紀前半より成長を遂げて1560年までにはアルプス以北における最大規模の都市となった。多くの外国商人が街に居住し、ポルトガル船からは胡椒やシナモンなどの積荷が日々下ろされていた。ヴェネツィアの大使だったフランチェスコ・グイチャルディーニは、何百の船舶が一日に往来し、2千もの荷馬車が毎週やってくることを記している。また、ポーランド産穀物を積んだ船の寄港地として、いくつもの倉庫を抱えていた。

ヴェネツィアやジェノヴァの繁栄は各地へと赴いた地元出身の商人によって支えられていたが、アントウェルペンの場合は同市出身の商人が世界各地に勇躍していったわけではない。アントウェルペン経済は、ヴェネツィアやラグーザ(ドゥブロヴニク)、スペイン、ポルトガルなど各地からやって来た商人たちの手で支えられており、このことが都市内の多様性・コスモポリタン的性格を形成していった[10]。宗教的にも寛容で、ユダヤ教正統派の大規模なコミュニティも形成されたほか、イベリア半島を追われた「マラーノ(マラノス)」の亡命先や、プロテスタントの拠点ともなり得たのである。

しかし、アントウェルペンは(ヴェネツィアやジェノヴァのような)「自由都市自治共和国」というわけではない。一時はブリュッセルのブラバント公による支配から離れたものの、1406年より再びブリュッセルの統制下に置かれていた。

アントウェルペンはこの黄金時代に1501年から1521年、1535年から1557年、1559年から1568年と3回の好況を迎えた。[11]最初の繁栄は、ポルトガルからもたらされた胡椒であった。この好況は1521年よりイタリア戦争が深刻化し、ヴァロワ家ハプスブルク家の間の戦乱によって国際商業が麻痺したことで収束していった。次の時期は、セビーリャ経由でアメリカ大陸産の銀が流入したことであった。これはスペインの国家財政が破綻する1557年に収束していった。最後の時期は、1559年にカトー・カンブレジ条約が締結されたことに伴う政治的安定であった。この時期にはイングランドと競合しつつも繊維産業が発展をみせた。

国際的な商業拠点として出版も盛んであった。16世紀のアントウェルペンは、現地フラマン語の文献のみでなく、英語やフランス語の出版・輸出拠点として栄えた。宗教的に寛容な性格のためプロテスタントの文献も多く出版された。実に、当時のネーデルラントで出版された文献のうち半数以上がアントウェルペン刊だったとされている[12]。16世紀後半で最も偉大な印刷出版業者ともいわれる[13]クリストフ・プランタンの工房は市内に現存しており、プランタン=モレトゥス博物館として、当時の出版文化を伝えている。

他方、コスモポリタン的性格の裏面として、海賊版の出版拠点となっていたことも事実である。中には、他の都市の業者の中にも、何らかの事情で版元を明かさず出版するときに、出版地をアントウェルペンと偽るケースも見られた[12]。リヨンの大手ブノワ・リゴーも、「アンヴェルスのピエール・ストルー」という架空の名義で出版したことがあった[14]

アントウェルペンの人口は、1500年には4万数千であったが、八十年戦争(オランダ独立戦争)勃発以前には10万を越えた。建造物の数も倍増した。その反面で貧困層も増加し、好不況の波と持続的な物価上昇は、未熟練労働者・荷運び人夫などの生活を苦しめることになった。

イタリア戦争後、スペイン王フェリペ2世は異母姉であるパルマ公妃マルゲリータネーデルラント17州の執政(全州総督)に任じた。フェリペ2世はネーデルラントの統制強化を図り、宗教的にはカトリックの強制を図ったため、ネーデルラント各地で集権化に反発する貴族やプロテスタントとの反目を生じさせた。1566年8月よりネーデルラント各地に広がった反乱は鎮静化したものの、この際のマルゲリータの対応に不満を持ったフェリペ2世は、1567年8月により強硬姿勢をとるアルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドを派遣した。しかし、対立はより先鋭化して翌年に八十年戦争(オランダ独立戦争)が勃発した。この戦争によってスペイン北部のビルバオとアントウェルペンを結ぶ交易ルートが維持できなくなり、イベリア半島との商取引が困難になったほか、スヘルデ川の封鎖も同市の経済を苦しめた。さらに1576年11月4日、スペインの兵士がアントウェルペンで残忍な掠奪を行った。これにより数千の市民が虐殺され、数百の家屋が焼き払われた。この被害額は200万スターリングにも及んだとされる。


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