アンデス文明
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その後、カトリック化が進み、また征服以降しばらく続いた異教徒弾圧などで、アンデス文明に存在した精神世界は徹底的に破壊されたが、それでも形を変え現代でも生き残っている。特に、大地の神パチャママへの信仰は、先住民社会に深く残っている。また、都市部においても祭りなどの中にパチャママ信仰に基づく慣習があり、アンデス地域に住む人々に広く浸透している。なお、これら在来の神は、カトリックの聖人と同一視されることが多い。このようなシンクレティズムが現代アンデス先住民の精神文化の特徴となっている。
生態学的環境

アンデス文明を理解するためには、アンデス地域の生態学的環境を理解する必要がある。この世界的にも独特な生態学的環境は、アンデス文明の発展と深くかかわっているからである。

アンデス地域、特に中央アンデス地域(現在のペルー共和国ボリビア多民族国北部)は、非常に多様な生態学的環境をもっている。南北に長く、東西に狭い地域に標高が高い山々が密接して連なるため、限られた地域に多様な生態系が存在する。ハビエル・ブルガル・ビダルは、アンデス地域をその生態学的環境と先住民による区分をもとにして、8区に分けた。アンデスの塊茎類

それは、

海岸砂漠地帯のチャラ、

山間および海岸地帯に広がる熱帯地域のユンガ、

おおよそ標高3000mくらいまでのキチュア、

標高4000mくらいまでの高原地帯のスニ、

さらに4800mくらいまでの草原地帯のプナ、

それ以上の氷雪地帯を含むハンカ、

アンデス山脈の東側のアマゾン地帯を、

1000m以下のオマグワ、

それ以上のルパ・ルパに分けている。

これら生態学的環境の差は、それぞれに地域で行われる生業にも影響を及ぼしており、ユンガ地帯は熱帯産の作物や果物類が、キチュア帯ではトウモロコシも含む多く栽培種が、スニではほとんどの栽培種が育たないためジャガイモなどの塊茎類とキヌアなどの雑穀が主として栽培されている。プナはおもに牧畜に利用されている。

また、これらの異なる生態学的環境を一集団や家族単位で同時に保有し、利用を行っており、これがアンデスの文化の特徴のひとつとなっている。
歴史南アメリカ大陸北西部の衛星写真 アンデス文明は写真左上の最も西に張り出した部分から、写真中央の最も東にへこんだ部分において栄えた
アンデスへの適応

南米に人類が住み始めた痕跡を示す遺跡で最古のものは、1万4000年前という年代測定値を示す遺跡もみられるものの、確実なのはクローヴィス文化に並行する1万1000年前の基部が魚の尾びれのような形状の魚尾型尖頭器を用いた狩人たちの遺跡である。チリの首都サンティアゴの南120kmにあるマストドンの解体処理を行ったタグワタグワのようなキルサイトは、この時代の特色を示す遺跡である。やがて紀元前7500年ころまでに洞窟の開口部や岩陰を利用して生活をする人々が現れ、ペルートケパラ洞窟アルゼンチンラス・マノス洞窟には、そのような人々の狩猟への願いを表現した洞窟壁画が描かれた。

紀元前5000年頃から農耕牧畜を行う社会となり、土器の製作、使用を行うようになる直前までを古期という。ペルー北部高地のラウリコチャ遺跡のU期(紀元前6000年?同3000年)に、I期に多かった鹿に替わって、リャマアルパカ等のラクダ科動物の骨の出土量の増加が見られ、中央高地のウチュクマチャイ洞窟の5期(紀元前5500年?同4200年)でやはりラクダ科動物の骨の出土量の増加が見られることからラクダ科動物を飼育しようとする試みがなされ始めたと考えられている。また紀元前6000年頃までにはトウガラシカボチャヒョウタンインゲンマメなどの栽培が開始されたことが北高地のギタレーロ洞窟出土の植物遺存体などから確認されている。また、紀元前3000?同2000年頃から綿カンナなどの栽培が始まったと考えられている。
諸王国の成立前夜

紀元前2500年頃になると、現在のペルーのリマ市北方のスーペ谷に、カラル(Caral)という石造建築を主体とするカラル遺跡(ノルテ・チコ文明(英語版))が現れる。遺跡の年代は、紀元前3000年から2500年ころと推定されている。しかし、発掘され現在復元されている遺跡群は、すでに非常に精緻なつくりをしているため、さらに遡る可能性もある(一部、形成期と呼ばれる紀元前1800年以降の遺跡も復元されている)。海岸遺跡は日干しレンガ製が多いが、この時期の遺跡には海岸遺跡の中でも石造建築がある。カラル遺跡からは、かなりの量の魚介類が出土している。

また、ペルー北海岸にワカ・プリエッタの村落跡やアルト・サラベリー、中央海岸のカスマ谷にワイヌナ、中央海岸地帯にアスペロ、同じく中央海岸地帯でリマの北方にエル=パライソといった神殿跡が築かれる。エル=パライソはU字型に建物が配置され、その一辺が400mに達するものである。一方山間部では、小型の神殿が建てられるようになる。紀元前3000年頃に、北高地サンタ川上流にラ=ガルガーダの神殿、紀元前2500年頃には、コトシュ遺跡(ペルー、ワヌコ県)に、交差した手をモチーフにした9m四方の「交差した手の神殿」が築かれた。

しかし、いずれも、当時はまだ土器を持たない時代といわれており、土器の誕生以前にこのような神殿群を誕生させたところに、アンデス文明の特徴があるともいえる。王の存在を強く認めるようなものは今のところ出ていない。この時期を、アメリカ合衆国編年では、先土器時代と区分することもある。

紀元前1800年頃になると、土器の利用が始まることが確かめられる。

そして、紀元前800年頃からチャビン文化が発達するようになる。これ以降、チャビン様式がアンデス北部に影響するようになり、そのためこのチャビン様式が広まった時代をチャビン=ホライズン若しくは初期ホライズンと呼ぶこともある。同じころ、北海岸には精緻な土器を伴ったクピスニケ文化が発達する。

しかし、紀元前後頃になると神殿を中心とした社会は消滅し、しばらくして王国が誕生する。

日本のアンデス文明調査団は、神殿建築がアンデス高地において広範囲に広がる紀元前2500年から形成期とすることを提唱しているが、ペルーでは紀元前1800年ころの土器の使用開始をもって形成期の始まりとする。アメリカ合衆国の編年体系では、社会進化論的名称体系を避けるため、土器の存在しない紀元前1800年以前を先土器時代、土器が出現してチャビン文化が広まる前の紀元前800年ころまでを草創期、チャビン文化がアンデスに広まるといわれている紀元前800年から紀元前250年ころを前期ホライズンとする。
王国の興亡

紀元頃になると、ペルー北海岸、現在のトルヒーリョ市周辺にモチェ文化が、現在のナスカ市周辺にナスカ文化が興る。これら海岸地帯では灌漑水路が発達している。日本ペルーでは、この時期を地方発展期、アメリカ合衆国の編年では前期中間期と呼ぶ。

山間部では、紀元700年頃になるとワリ文化が発達し、都市的な様相をなす建造物群が各地に造られる。また、ワリアンデス中にテラス状の段々畑(アンデネス)を広げたと言われている。この時期、「正面を向いた神」と「首級を持つ翼のある神」といったモチーフが土器や織物を媒体にして、ペルー領域に広まった。そして、これらの図像がボリビアのティワナク文化の図像と類似していたため、かつては「海岸ティアワナコ」あるいは「ティワナコイデ(類ティアワナコ)」と呼ばれていた。現在では、これらの図像はワリ文化のものとされており、ティワナク文化と区別されている。

また、現在のボリビアの高原地帯では、紀元前後頃から紀元400年頃にかけてティワナク文化が興り、紀元1100?1200年頃まで続く。

このワリが広がり、ティワナクと共存していた時期を、ペルーではワリ期、アメリカ合衆国の編年では中期ホライズンとよぶ。日本ではペルーの研究者の影響でワリ期を用いる概説書が多いが、それでも「中期ホライズン」を併記したり、「ワリ帝国(スペイン語版、英語版)説」を否定する意味を込めて「中期ホライズン」を使う研究者もいる。

その後、ペルーの北海岸では、8世紀頃からラ=レチェ川流域にシカン文化、9世紀後半頃からモチェ川流域トルヒーヨ市周辺にチムー王国が興る。チムー王国は14世紀頃までにシカンの国家を併合した。また、ペルー中央海岸地帯、現在のリマ市北方のチャンカイ谷では人型を模した素焼きの土器で有名なチャンカイ文化が花開く。さらに、遅くとも10世紀頃にはリマ近郊のルリンにあるパチャカマ神殿を中心とするパチャカマ文化が花開く。パチャカマ神殿の起源はさらにさかのぼることが分かっている。ティティカカ湖沿岸では、ティワナク社会が崩壊した後、アイマラ族による諸王国が鼎立し、覇を争うようになる。中でも、ティティカカ湖北岸のコリャ(Colla)と、ティティカカ湖南西岸のルパカ(Lupaca)は強力で、互いに覇を争っていた。インカはこの争いを利用して、両者を征服、さらにティティカカ湖南岸のパカヘ(Paqaje)なども征服し、1470年ころまでにティティカカ湖沿岸を平定する。しかしながら、インカ帝国内においても、この地域には特権が与えられていたことが、スペイン人征服者による記録文書に記されている。

この時代は、一般的な傾向として、ペルーでは地方王国期、アメリカ合衆国の編年では後期中間期、日本では両者を用いることがある。

最後に、ペルー南部の山間部にあるクスコ盆地インカが興り、15世紀前半から急速に勢力を拡大して各地を征服し、15世紀後半にはチムー王国を屈服させ、アンデス一帯に広がるインカ帝国を成立させる。
最後の先住民国家 - インカ帝国詳細は「インカ帝国」を参照

諸王国をまとめる形で最終的に、インカ帝国が誕生する。その領土は、北は現在のコロンビア南部から、南はチリのサンティアゴまでにわたるアンデス文明圏のほぼ全域を押さえた最後の先住民国家であった。首都はクスコにあった。

インカはこれまでのアンデス文明の集大成とも呼べるものであり、インカ独自に開発したものよりも、むしろそれまでの技術を継承して発達させた部分が多い。

たとえば、キープと呼ばれる結縄(縄の結び目で数などを表す)やアンデネス(段々畑)、道路網などはワリ期にさかのぼるといわれ、壮大な石造建築技術はティワナクやワリに、金の鋳造技術はシカンからチムーを経てインカへ受け継がれている。


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